「甘味に富み、風味絶佳」と言われる富有 【絵:後藤 泱子】
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鮮やかな柿の赤みが、食卓にいろどりを添える季節がやってきた。柿は日本人にもっともなじみの深い果物の一つで、その栽培の歴史は8世紀ころまでさかのぼる。
かつての農村にはどの家の庭先にも古い柿の巨木があって、貴重な甘味源になっていたものである。当然、地方種も多い。明治45年の農商務省の調査では、品種と明確に認められるものだけでも、
1,000種近くを数えたという。
明治の中ごろ、岐阜県川崎村(現巣南町)の小倉長蔵(おぐらちょうぞう)方裏の竹林にも、そんな柿の木の一本があった。地際から分岐した2本の太い幹をもち、
樹齢100年以上に達していたという。もともとこの地方は江戸時代から「居蔵御所(いくらごしょ)」と呼ばれた柿の産地。中でもこの柿は格別に外観も風味もよく、
近所でも評判になっていた。実はこの柿こそ、今日全国的に人気の高い「富有(ふゆう)」の原木である。きっかけをつくったのは、隣家の福島才治(ふくしま さいじ)だった。
才治は向学心に燃えた青年で、はじめは医師を志していたという。健康を損ねて修学を断念するが、以後その情熱を故郷の農業振興に傾注する。明治17年、小倉から穂木を分けてもらい、
接ぎ木苗の量産にとりかかる。そこで育てた苗木を周囲の農家に分け与え、市場性にすぐれたこの柿の栽培を広めていった。彼の努力は徐々にみのり、明治の終わりころには、
隣接する糸貫町などに産地が形成されるまでになった。
彼はまた、この柿を積極的に各地の共進会に出品し、広く全国に普及するよう努力している。とくに明治31年の岐阜県農会主催の柿展覧会以降は、品種名を「富有」と命名して普及に努めた。
富有の名は、中国の古典「礼記」の一節「富有四海之内」(天下を豊かにたもつ)からとったという。
もっとも富有が全国に知られるようになったのには、当時の農事試験場園芸部長恩田鐵彌(おんだ てつや)の力が大きく預かっている。明治36年、
岐阜市で開かれた共進会に審査委員長として出席した恩田は、ここで福島に会い、彼の富有に1等賞を授与している。
恩田はその後も才治に力を貸し、著書でも「熟すれば紅色を帯び外観極めて美なり甘味に富み風味絶佳、甚(はなは)だ豊産にして現今最も有望の品種なりとす」と激賞、
全国に紹介している、彼の仲介で宮中に献上されたことも、普及の追い風になった。明治末から大正にかけて富有は全国に広まっていった。
才治は単に接ぎ木苗を増殖し、富有を殖(ふ)やしただけという見方もあるだろう。だが彼の慧眼(けいがん)と献身的な苗木づくりがなかったら、今日の富有の隆盛はなかったに違いない。
新しい技術開発の目はどこにでも転がっていることを、この事実は伝えているのだろう。
平成10年現在、わが国の柿栽培面積は2.3万ヘクタール。富有は抜群の1位で、6,600ヘクタールを占める。最近は国内だけでなく、韓国などでも栽培されるようになった。
才治はなかなかの知識人で、書や俳諧(はいかい)もよくした。山高帽に白足袋姿がよく似合い、人力車で出歩いていたという。大正8年、55歳で亡くなった。
功績を称(たた)える顕彰碑は彼の屋敷跡に近い神社境内に建つ。富有の原木は枯死したが、原木二世が現存している。
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