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八丈島青年農家の大志

〜 世界に羽ばたくフェニックスの島 〜


イラスト

フェニックス・ロベレニーはベトナム、ラオス原産で
ヤシ科フェニックス属の観葉植物
【絵:後藤 泱子】


絵をクリックすると大きな画像がご覧いただけます。)
 平成2年、八丈島の青年4人がオランダの花市場を視察した。都が企画した海外研修旅行の道すがらだが、ここで彼らは大変な発見をした。 「フェニックス・ロベレニー」が国内価格の5〜10倍で売られていたのである。<輸送費をみても十分採算がとれる>八丈島のロベレニー輸出作戦はここから始まった。

 ロベレニーをご存じだろうか。成木は鉢物、切葉は生け花用添え葉として人気が高い。実はこの観葉植物の9割までが、なんと八丈島の産である。 八丈島からきた青年たちがこのチャンスを見逃すはずはなかった。

 帰国すると、彼らはさっそく仲間に呼びかけ行動を開始する。ここからは「八丈島農業振興青年研究会」が中心になった。視察団の団長でもあった町長の支援もあり、 町や農協も全面的に協力してくれた。
 八丈島からオランダまでは船便で40日。この間、ロベレニーは暗い冷蔵コンテナに密閉され、給水もできない。どう積めばより多くの鉢数を送ることができるか。 すべてがゼロからの出発だったが、彼らは実際のコンテナを使って実証してみている。

 輸出の最大の難関は植物検疫である。地上部はもちろん、土中の病害虫防除にも完ぺきを期さねばならない。薬剤選び・施用法など、関係機関の意見も聞きながら、 ここでも自前の防除技術が組み立てられていった。
 平成3年、視察からわずか半年後に、ロベレニー450鉢がはじめてオランダに渡る。大変好評で短期間に売り切れ、輸出経費を差し引いても国内市場の1.6倍の所得を上げることができた。 以後、輸出は年々増加する。もっとも途中にはコンテナ故障でロベレニーが全滅する失敗もあったようだが、挫(くじ)けることはなかった。 積載法を立て積みから横積みに工夫し、輸送量を倍増したり、オランダやドイツの国際博で金賞を受賞したりして、競争力を強めている。こうした努力が稔(みの)ったのだろう。 平成13年には計7回・6千鉢がベルギーに輸出されている。

 ところでこの辺りで、こうした八丈島農家の技術力がどこで養われたかについても触れなければなるまい。八丈島でロベレニーが栽培されるようになったのは大正10年ころ。 ある植木会社が持ち込んだ雌雄2株が、今や全島で700万本、耕地面積の55%を占めるこの島のロベレニーの起源であるという。

 もっともロベレニーが島の特産になったのには、山下甲太郎・福田富一郎という2人の農家の力が大きかった。2人はロベレニーを自力で殖(ふ)やし、 周囲の農家にも奨(すす)めている。ちょうど昭和10〜20年代のこと。この食糧難時代に、という非難がなかったわけではないが、<必ず売れる時代がやってくる> という2人の信念が揺らぐことはなかった。

 昭和30年代以降、その美しさが消費者に認められ、ロベレニーの需要は急増する。最近は切葉の方が人気が高く、平成12年現在、鉢物で5万5千鉢、 切葉で5千万枚が島から出荷されている。

 大正の昔、先人が八丈島に播いた種子が今、若者たちの手ではるかな海を渡り、世界にはばたく。国際化の荒波を受けて苦闘する日本農業の中で、これは逞(たくま)しくも明るい話である。
「農業共済新聞」 2002/01/16より転載  (西尾 敏彦)


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