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”雀の飯米つくり”と笑われながら

〜 水稲早期栽培 薦田快夫の情熱 〜


 厳寒の季節だが、九州や四国の南部ではもう水稲早期栽培の種まきがはじまるころだろう。

イラスト

讃岐富士(飯野山)と讃岐平野。
薦田はこの辺りで活躍した
【絵:後藤 泱子】


絵をクリックすると大きな画像がご覧いただけます。)
 早期栽培は寒冷地の早生品種を早植えし、8月末までに収穫する暖地特有の栽培法。これに近い栽培法は戦前にも一部の地方でみられた。だがなんといっても、戦後西日本全域を席巻し、 暖地水稲の生産力増強に貢献した早期栽培のルーツとなれば、香川県農業試験場薦田快夫(こもだ かいお)をおいてほかにないだろう。

 薦田の研究はしかし、当初から早期栽培にしぼられていたわけではない。稲作期間の可動性を追求し、稲作に活路を見いだそうというのが、彼のねらいだった。

 当時の香川県の稲作は零細で、干ばつや台風、秋落ちなどの被害も多かった。昭和21年に着任した薦田は、早・晩期栽培で作期の巾(はば)を拡(ひろ)げ、 災害を回避しようと考えたのである。もちろんこれら栽培と他作物を組み合わせることで、水田利用率の向上を図るのも、彼のねらいだった。

 実は彼は、戦時中、スラウェシ島で稲作研究に従事している。ここで日本稲のうち北日本の早生品種が高温下の栽培に適すること、田植えには極端な若苗が好適であることを経験した。 この体験をもとに〈北日本の早生品種を使い、若苗を移植すれば作期の移動も可能ではないか〉と考えたのが、早・晩期栽培のはじまりである。昭和22年のことであった。

 今でこそ稲作期間に巾があることは常識になっているが、かつての暖地では動かし難いものとされていた。二化(にか)メイチュウの被害や用水確保の難しさを考えれば当然のことだろう。 彼のアイデアは研究者仲間から<雀の飯米(めし)つくり>と冷やかされ、試験圃場も十分には分けてもらえなかったという。

 試験場では十分な試験ができなかった彼に助け舟を出してくれたのは、農家だった。昭和24年には90人が試験展示圃を提供し、3年後には800人近い農家が協力してくれたという。 期待の大きさを示すものだろう。研究が急速に進んだのはいうまでもない。「早期栽培」「晩期栽培」の命名は、このころ薦田によってなされたものである。

 薦田は早・晩期それぞれの普及を期待したが、実際には早期栽培が先行した。同じ時期に開発された保温折衷苗代や農薬が追い風になったのだろう。 早期栽培が暖地稲作の泣きどころだった秋落ちの回避に有効で、増収にもむすびついたことも大きな理由だろう。

 早期栽培の普及面積は昭和33年には17万ヘクタールに達している。最近は資料が乏しく総面積は不明だが、鹿児島・宮崎・高知の3県だけで2万5,000ヘクタールが栽培されている。 早期栽培の普及で、暖地の稲作が相対的に早植えになり、安定的な多収が可能になったことも、効果に追加されなければならないだろう。

 薦田は情熱と行動の人であった。香川県農業試験場ではまもなく場長に昇任したが、昭和31年に大分県農業試験場長に転じ、ここでも早期栽培の普及に全力を尽くした。 早期栽培の後作にビート(テンサイ)の作付けを企画、その普及をめざし陣頭指揮もした。残念ながらビート栽培は失敗に終わり、昭和38年、彼はその責を負う形で職を辞した。 昭和61年、80歳で亡くなったが、きっとあの世でも農業の行く末に想(おも)いを馳(は)せていたことだろう。
「農業共済新聞」 2002/02/13より転載  (西尾 敏彦)


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