農業用モノレール。 最近は観光農園や森林でも活躍している 【絵:後藤 泱子】
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「米山君、これからのミカン栽培では運搬が死命を制する。運搬の重労働から農家を解放する軽便な運搬機はつくれないものかね」愛媛県果樹試験場薬師寺清司(やくしじ きよし)場長のこの一言が、
米山徹朗(よねやま てつお)の人生を大きく変えた。
薬師寺といえば、場長を26年も務めたミカンの神様。当時30歳そこそこの米山には、この一言がまさに神の啓示に聞こえたのである。昭和37〜38年のことであった。
ミカン畑といえば、だれでも段々畑を目に浮かべるだろう。最新の統計をみても、15度以上の急傾斜畑が4割を占める。まして当時の瀬戸内には40度を超える段々畑がたくさんあった。
農家はこの傾斜畑を上下しながら、肥料堆肥を担ぎ上げ、ミカンを担ぎ下ろすのである。
このころになると、少しずつ農道が整備されはじめてはいたが、それでも多くは天秤棒(てんびんぼう)が頼りの過酷な作業だった。
米山は当時、兄の経営する農機メーカーで、営業兼設計を担当していた。ちょうど米山工業を創立して独立を目指していた時期でもあった。薬師寺の示唆に奮い立った彼は、
さっそく運搬機づくりに着手した。
最初に彼が考えたのは、トロッコのように2本のレールを敷き、山頂に設置したウインチで運搬車を引き上げる方式だった。だが、これではカーブを曲がりきれない。
試行錯誤を重ねた末に、最後にたどり着いたのが、モノレール方式の自走機だった。ミカン畑に、角パイプのモノレールを架設(かせつ)する。レールの下側にはラック(刻み)がつけてある。
このラックに跨座(こざ)式の自走運搬機の歯車が噛(か)み合い、移動する方式だった。
昭和41年の秋、米山はこの試作機を愛媛県の農業祭に展示した。大変好評で、まもなく市販に移したが、売れ行きも好調だった。農道と違って、モノレールは樹(き)の伐採(ばっさい)や基盤整備を必要としない。
機械化を拒んでいた傾斜畑にまで導入できることが、人気を呼んだのだろう。ミカン農家の労働軽減に役立ったことはいうまでもない。導入により、
上げ荷・下げ荷の作業時間が各4分の1、2分の1にまで減少したという報告もある。
昭和51年、米山はさらに乗用型モノレールを完成させる。従来型は人の乗用を禁止していたが、農家からすれば乗ってみたくなる。そのため暴走事故が起こり、
死傷者まで出るはめになった。乗用型はこうした事態に対処して開発されたものだが、観光農園や森林管理作業用としても普及していった。
農業用モノレールは、梅園やタケノコ林にも普及している。乗用型の大型機は森林の作業員、材木運搬用としても活躍するようになった。最近は同種メーカーも多いが、
今も米山工業が70%のシェアを占めている。
モノレールの普及最盛期は昭和40年代後半で、この時期のレール総延長は2,000キロに達していた。JRなら、盛岡・鹿児島間の距離に相当する。残念ながら現在は、
その10分の1程度にまで減ってしまった。
米山は現在70歳。今も松山市で、米山工業の陣頭に立つ。大変多趣味な人で、ヨットや飛行機の操縦までこなす。社会奉仕にも熱心で、地元松山ゆかりの坊ちゃん列車を自費で復元、
市民にやすらぎを提供している。
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