【絵:後藤 泱子】
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今年は太平洋戦争終結60周年にあたる。あの戦争が近隣諸国に大変な迷惑をかけたことは痛恨のきわみだが、かといって現地の農業に生涯をかけた農業技術者たちの努力が埋もれてしまうのは、いかにも口惜しい。
わけても、台湾農業の振興に生涯を捧げた八田與一技師の功績は、わが国農業技術の歴史に長くとどめておくべきだろう。
八田は現在の金沢市の生まれ。明治43年(1910)、大学卒業と同時に台湾に渡った。ここで総督府土木部(局)に勤務した彼は、終生を台湾農業に捧げることになった。
台湾が日本の統治になったのは明治29年(1896)、日清戦争後のことである。当時の台湾の水田面積は20万ヘクタールほど。それが昭和13年(1938)には54万ヘクタールにまで増えている。
急増の主因は農業用水で、なかでも南部の嘉南平野15万ヘクタールを潤した嘉南大しゅうの役割は大きかった。その総指揮を執ったのが、当時30歳代の少壮技師八田與一であった。
嘉南大しゅうは大正9年(1920)に着工、10年後の昭和5年(1930)に完成した。総工費8000万円は現在の1000億円以上に相当する。
水源は曽文渓と濁水渓の2つの大河だが、
難関は曽文渓の支流官田渓をせき止める烏山頭ダムの工事だった。
ちなみに、台湾で「しゅう(土偏に川)」は農業用水、「渓」は谷川を意味する。
烏山頭ダムは粘土と砂・礫を主材料に、コンクリートをほとんど使わないセミ・ハイドロリック工法で建設された。ここに官田渓のほか、山一つ隔てた本流曽文渓の水を3000メートル余の隧道を掘って流し込む。
ダム建設といい、隧道掘削といい、当時の日本の技術力からすると、大変な難工事であった。
烏山頭ダムの有効貯水量は1億5000万立方メートル。これに濁水渓の水も加えた豊富な水が網の目のように張り巡らされた給排水路を伝って農地に注ぐ。総延長1万6000キロは愛知用水の14倍、
地球を半周する長さであった。八田はこの大事業を大型機械を輸入した以外、すべて国産技術で成し遂げていった。
嘉南大しゅうの完成によって、それまでわずかな畑地と天水田しかなかった嘉南平野は一転、肥沃な農地に生まれ変わった。注目されるのは、ここで営まれた「3年輪作農業」である。
サトウキビ・水稲・畑作物を1年おきに輪作するこの農法は、区ごとに作付けをずらす周到な配水計画が必要であった。4分の3世紀たった今も継承されているというから、その完成度の高さには驚嘆のほかない。
昭和17年(1942)、八田は突如56年の生涯を閉じる。軍の命令でフィリピンに向かう途中、アメリカ潜水艦の攻撃に遭い、帰らぬ人となった。3年後、夫人も八田が心血を注いだ烏山頭ダム湖に身を投げ、
彼の後を追っている。
八田の非業の死は哀しいが、彼の志は今も台湾農民の胸に生きている。その証だろう。烏山頭ダムの湖畔には、作業衣姿の八田の座像が置かれている。
近くにはこれも戦後台湾農民の浄財によって建立されたという八田夫妻の墓が今も大切に守られている。
戦後、植民地色がすべて払拭された今日の台湾に、日本人の銅像が2つだけある。1つは台湾大学にある蓬莱米の父磯永吉の胸像、
もう1つが八田の座像で、いずれも農業技術者の像であることがうれしい。農業技術が時を超え、民族を超え、すべての人類に尊重されていることを示すものだろう。
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