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おいしくて光沢のある白米を生み出した
佐竹利彦(さたけとしひこ)の精米機人生


イラスト

【絵:後藤 泱子】

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 ふっくらと炊きあがったまっ白なご飯は、昔から日本人のあこがれだが、最近の白米はおいしい上に、まっ白で光沢がある。そんな「光る白米」をつくった精米機の父、 佐竹利彦(さたけとしひこ)を今回はとりあげてみた。  
 
 我が国の精米機の歴史は明治29年(1896)、利彦の父、広島県の佐竹利市(さたけりいち)が4連式唐臼搗精(からうすとうせい)機を発明したときからはじまる。 当時、農村では足踏み式の唐臼が精米の主役だったが、利市はこの唐臼を機械化したのである。天秤の両端の杵を動力で上下させ、4つの臼内の米を交互に搗く方式だった。  
 
 利市はその後「佐竹機械製作所」を創立、本格的に精米機発明に取り組む。我が国ではじめて砥石ローラーを利用した研削式精米機を発明したのも、彼であった。  
 
 利彦が父の会社に入り、精米機の開発に挑むようになったのは昭和3年(1928)である。進学を断り、旧制中学卒業とともに精米機発明に挑んだ彼は、ここで父をしのぐ才能を発揮した。  
 
 ちょうど昭和になって、軍が脚気(かっけ)予防のため、胚芽米を重視しはじめた時期である。親子が共同開発した胚芽白米用精米機が完成したのは昭和5年(1930)。精米工業はこのころから急速に発達し、 戦争の拡大とともに外地にも精米工場が建設されるようになっていった。  
 
 昭和18年(1943)、利彦は社長に就任、2年後に敗戦に直面する。しかしその混乱の中でも、彼の研究が途切れることはなかった。やがて農業機械化の時代が到来すると、(せき)を切ったように、 新しい精米機を発表していった。  
 
 なかでも最大の業績は、昭和30年(1955)に完成した「コンパス精米装置」だろう。一般に精米方式には、米粒を砥石ローラーで研磨する研削式と、米粒同士の摩擦で削る摩擦式がある。 彼はこの両者の利点を活かし、研削−摩擦−摩擦の3工程で、玄米表面のヌカ層の完全除去に成功した。昭和52年(1977)にはさらに、水分を添加して研米する装置を考案、よりつややかな白米を家庭に送り込めるようになった。 最近のお米がおいしいのには、このヌカ層完全除去が陰の力となっている。  
 
 彼の精米機は海外でも評価が高い。戦前から、東南アジア各国に精米工場で活躍していたが、昭和35年(1960)にはアメリカに進出している。いくつかの國で精米プラントを「サタケ」と呼ぶのは、 その実力の証(あかし)だろう。  
 
 利彦の興味の対象は精米機だけにとどまらない。昭和39年(1964)には我が国初のカントリーエレベーターを完成、大規模乾燥調製施設の建設の先陣を切った。さらに色彩選別機・食味計など、 新機種の開発にも挑んでいる。  
 
 利彦は発明家としてだけでなく、精米理論の完成者としても知られる。著書『近代精米技術に関する研究』は、78歳のとき取得した博士論文の公表著書だが、精米理論を集大成した書としても高く評価されている。  
 
 彼はまた人ぞ知るヤシ博士。若い時代、商用で熱帯各地を巡ったときから興味をもち、ヤシ研究の第一人者に登りつめた。世界でも石垣島・西表島にしか生育しないヤエヤマヤシは、彼の発見になる。 学名サタケンティア・リューキュエンシスは、もちろん発見者に因んだ命名である。  
 
 平成10年(1998)、利彦は88歳で亡くなった。ちょうど米寿に当たるが、60余年にわたり米一筋に生きたこの人らしい幕引きであった。  
 
続日本の「農」を拓いた先人たち(55)精米機の技術向上に尽力、「光る白米」をつくった佐竹利彦 『農業共済新聞』2004年2月2週号(2004).より転載  (西尾 敏彦)


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