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珠心胚実生から育てたミカン、「興津早生」を育成した
西浦昌男(にしうらまさお)


イラスト

【絵:後藤 泱子】

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 温州(うんしゅう)ミカンが店頭を飾る季節になった。ついこの間まで、ミカンは冬の果物だと思っていたのに、最近は7〜8月から出回るようになった。 早生品種の開発が進み、加えてハウス栽培の普及など、早出しの条件がととのってきたからだ。今回はその主役、早生品種「興津早生(おきつわせ)」の誕生について述べてみよう。  
 
 「興津早生」は昭和38年(1963)、当時の農林省園芸試験場(現在の果樹研究所)で、西浦昌男(にしうらまさお)らによって育成された。 珠心胚実生(しゅしんはいみしょう)から生まれたわが国初の品種である。  
 
 ここで珠心胚実生について説明しておく。カンキツ類にはハッサク・イヨカンのように単胚性のものと、温州ミカンやオレンジのように多胚性のものとがある。多胚とは1つの種子に複数の胚(芽)をもつもの。 温州ミカンでは1種子に20個近い胚があるが、この胚のうち受精と関係なく発生した実生が珠心胚実生である。当然だが、遺伝的には母樹と同じクローン(分身)の個体である。  
 
 じつはこの珠心胚実生の存在が、カンキツ類の交雑育種にとって最大の悩みであった。せっかく交配しても、周囲の珠心胚実生が邪魔をして、かんじんな受精胚実生の生長を妨げるからである。 ほかの果樹に比べ、カンキツの交雑育種が遅れたのは、こうした理由によるものであった。  
 
 交配品種の育成に時間がかかるなら、珠心胚実生を活かしてはどうか。クローンといっても、珠心胚実生は突然変異が発生しやすい。〈その突然変異の中から選抜しては〉というアイデアを提案したのは、 当時の園芸試験場長梶浦實(かじうらみのる)であった。西浦はこの提案に従い、「宮川早生(みやがわわせ)」からの珠心胚実生づくりに取り組んでいった。 ちなみに、「宮川早生」は明治末期に福岡県の宮川謙吉(みやがわけんきち)がみつけた枝変わり由来の早生品種である。  
 
 珠心胚実生を育てるには、もちろん種子ができなければならない。ところがご存じのように、温州ミカンは種子がほとんどできない。そこで西浦はカラタチを受粉させ、種子を得ることにした。まず果実を集め、 種子を探す。種子がみつかったら、皮をていねいに剥がし、殺菌水の中で揺って、胚をバラバラにする。さらにこれをシャーレのろ紙上に置床し、発芽させる。西浦はこのめんどうな方法で、 6000個体もの実生を得た。とても勤務時間内に終わらせることができないので自宅にまで持ち帰り、奥さんまで動員して夜なべ作業をしたという。  
 
 シャーレで発根した実生は最後に圃場に移され、選抜された。興津早生はこのきびしい選抜の結果選び出された最後の2個体中の1個体である。ちなみにもう1個体も「三保早生(みほわせ)」と命名され、同時に世に出ている。  
 
 珠心胚実生による品種改良は、交配育種のような飛躍的な特性改変はないが、小刻みの進歩が期待できる。「興津早生」の場合、「宮川早生」に比べ豊産で味も濃厚、色づきも5日ほど早くなった。 以後、この方法で育成された品種に「瀬戸温州」「愛媛中生」などがある。  
 
 平成15年(2003)現在、「興津早生」の栽培面積は6800ヘクタール、温州ミカンでは「宮川早生」についで第2位を占める。  
 
 西浦はその後もカンキツの品種改良に情熱を燃やし、昭和54年(1979)に「宮川早生」と「トロビタオレンジ」の種間雑種「清見(きよみ)」を育成している。 園芸試験場でカンキツ育種がはじまって42年目の、交配品種第1号の誕生であった。  
 
続日本の「農」を拓いた先人たち(73) 珠心胚実生でミカン育種、「興津早生」を育てた西浦昌男 『農業共済新聞』2005年8月2週号(2005)より転載  (西尾 敏彦)


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