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起死回生、「デコポン」にかけた
JAうき(宇城)の農家たち


イラスト

【絵:後藤 泱子】

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「高糖分で、味が濃厚。種子はないし、香りもよい。果皮は簡単にむけるし、袋ごと食べられる。これこそ育種家がのぞんでいた理想のカンキツでは……」   
 この品種の特性調査に関与した磯部 暁(いそべあきら)熊本県果樹研究所長は、はじめてこの品種に会ったとき、こう思ったという。 目下、人気急上昇中の晩かん「デコポン」の誕生にまつわる話である。  
 
 「デコポン」の正式品種名は「不知火(しらぬい)」。両親は「清見(きよみ)」×「ポンカン」である。 昭和47年(1972)に園芸試験場口之津(くちのつ)試験地(現果樹研究所カンキツ研究部)で交配されたが、 そのまますんなり品種になったわけではない。じつは玉揃いが悪く形もいびつなため、選抜途中で放棄されてしまったのである。  
 
 ところが、このいったん捨てられた品種が、なぜか熊本県の不知火(しらぬい)農協(現JA熊本うき不知火支所)でよみがえる。 ちょうどミカン大暴落やオレンジ自由化がつづき、農協では特産甘夏の売行き不振で四苦八苦していた時期である。柑橘部会長の石原隆三(いしはらりゅうぞう)らは試験圃を設け、 ポスト甘夏さがしに没頭していた。170種の果樹を集めたそうだが、問題の品種もその中に含まれていた。誰かが持ち込んだのだろう。品種の権利保護が徹底した今日では考えにくいことだが、 結果として、これが起死回生の大ホームランにつながった。  
 
 「デコポン」はしかし、この試験園でも最初から高い評価を受けたわけではない。当初は酸味が強く、モノになるとは思われていなかった。だがその品種が突然脚光を浴びる。試験園長永目新吾(ながめしんご)のちょっとした思いつきがきっかけだった。  
 
 昭和60年(1985)の春、永目はたまたま取り置きのまま放置してあったこの果実を食べてみた。ところがなんと、酸味が抜け、抜群においしい。ちょうど来訪した市場関係者にも食べてもらったが、 そこでも太鼓判を押された。この品種に「熟成」が必須であることが明らかになったのは、このときからだった。  
 
 ここから農協をあげての産地づくりが進められいく。デコポン部が新設され、甘夏に高接ぎすることで、面積を急増させていった。ただ自分たちで品種を選び出した以上、栽培法も自分たちで工夫しなければならない。 酸味を抜くための灌水技術や熟成方法、樹勢維持のための土壌管理・施肥技術など、つぎつぎに彼らの手で開発されていった。途中、台風が襲来して、せっかく実った「デコポン」を落果させることもあったが、 彼らはくじけなかった。今日では施設栽培も増え、屋根かけ栽培とともに出荷期間の延長に貢献している。  
 
 「デコポン」が東京市場に初出荷されたのは平成3年(1991)。25トンが出荷され、最高値5キロ7千円、甘夏の3〜4倍の高値で取引された。最近は全国各地で栽培され、出荷量は2万トンを超え、 栽培面積も2820ヘクタールに達しているが、まだまだ伸びるに違いない。  
 
 「デコポン」という名は、農家の間から自然発生的に生まれたものだが、今ではブランド名として定着している。育種家が敬遠したあの果形からのネーミングだが、消費者にもヒットし、販売促進に貢献している。  
 
 平成13年(2001)、JAうき不知火支所に近い〈道の駅不知火〉に「デコポン発祥の地」の記念碑が建設された。出荷10年記念だそうだが、私には不屈の農民魂を称える金字塔にみえた。  
 
続日本の「農」を拓いた先人たち(53)かんきつ類の救世主、「デコポン」を育てた不知火農協 『農業共済新聞』2003年12月2週号(2003).より転載  (西尾 敏彦)


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