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鳥取「二十世紀」の救い神、卜藏梅之丞(ぼくらうめのじょう)


イラスト

【絵:後藤 泱子】

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 10月の中ごろ、鳥取「二十世紀」ナシの親木(おやぎ)(原木)を訪ねてみた。かつてこのあたりは鳥取「二十世紀」の創始者北脇英治(きたわきえいじ)の梨園だったそうだが、 現在は「とっとり出合いの森公園」になっている。公園には「二十世紀梨の故郷」という一画があって、3本の老樹がいっぱいに枝を伸ばしていた。北脇が明治37年にここに植えた苗木は10本だったというから、 その3本が残っているのだろう。周囲には北脇の顕彰碑や東屋が建ち、落ち着いた雰囲気のかもし出している。

 「二十世紀」は千葉県松戸市の農家松戸(まつど)覚之助(かくのすけ)によって発見された。品種として世に出たのもやはり明治37年(1904)ころだから、北脇はずいぶん早くこの苗木を手に入れたことになる。

 もっとも、この枝を伸ばした大樹からみるほど、「二十世紀」の歴史は順調ではなかったようだ。一時は、あの上品な香味が受けて急速に普及したが、やがて壊滅的な打撃を受ける。「黒斑病」に極端に弱かったためである。

 黒斑病は明治42・3年(1909〜1910)ころから「二十世紀」の普及とともに全国に広がった。病原菌は黒い菌糸をもつ糸状菌。この病気にかかると、果実が小指大になったころから黒斑が出はじめ、やがて病斑部に亀裂を生じて落果し、 ひどいときは収穫皆無にもなる。ナシ農家にとっては格別恐ろしい病気であった。

 「二十世紀」が普及しはじめた当初、黒斑病の防除法は全くなかったといってよい。そのため各地の産地が脱落していったが、ひとり鳥取だけは踏みとどまることができた。きっかけは、北脇が病理学者卜藏梅之丞(ぼくらうめのじょう)に会ったところにあった。 北浦はのちにこの出合いを「神の与え給いし所」と述懐している。

 卜蔵は当時農林省農事試験場にあって、黒斑病対策に奔走していた。各地の被害を調査した結果、ボルドー液(生石灰と硫酸銅の水溶液)の一斉防除が有効であることに思い至る。彼の提案を受けた鳥取県ではさっそく防除組合が結成され、 全県一体の防除が行われるようになった。もちろん北脇が中心で、自ら組合長に就任している。

 一斉防除の効果は2年後から明らかになっていった。さしもの難病も激減したのである。鳥取「二十世紀」が地域に根づきはじめたのはこのときからであった。卜藏はさらに、農薬を漬ませたパラフィン袋によって、 病菌の侵入を防ぐことを考案している。ちなみに「ナシ黒斑病」の和名は、彼が命名したものである。

 卜藏は長年農林省で農作物の病害防除業務に従事した我が国植物病理研究草分けの一人である。ナシ以外でも、水稲いもち病などへのボルドー液散布を提唱しており、農薬利用技術の創始者といってよい。 最近は農薬に対する風当たりが強いが、あの時代適切な防除なしに、ひ弱な「二十世紀」を鳥取の大産業に育て上げることはできなかっただろう。

 平成13年(2001)現在、鳥取県の「二十世紀」栽培面積は1200ヘクタール、全国栽培面積の48%を占める。最近はさらに海外にも輸出していて、金額で全輸出農産物のトップをきっている。 だがこうした栄光の陰に、黒斑病と戦った北脇と卜藏の労苦があり、さらには一世紀にもわたって防除に全力を尽くしてきた多くの農家の力があったことを忘れるわけにはいかないだろう。

続日本の「農」を拓いた先人たち(41)適切な一斉防除で黒斑病激減、鳥取「二十世紀」の救い神、卜藏梅之丞 『農業共済新聞』2002年12月2週号(2002)より転載  (西尾 敏彦)


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