【絵:後藤 泱子】
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我が国のブドウ栽培面積は平成14年(2002)現在、2万1800ヘクタール。県別では山梨県がダントツで、4720ヘクタール(22%)を占める。同県の甲州ブドウの栽培は12世紀にさかのぼるというから、
すでに800年の長い歴史をもつわけだ。
だが、このブドウ王国も、ここに至るまでには幾多の危難を乗り越えている。とくに明治から大正にかけてのフィロキセラ(ブドウネアブラムシ)の大発生は、同県だけでなく日本中のブドウ産地を壊滅の危機に追い込んだ大事件だった。
危難を救ったのは、当時山梨県農事試験場にいた神沢恒夫であった。
フィロキセラは体長1ミリにも満たない微小害虫。主に単為生殖で繁殖力はきわめて旺盛、ブドウの葉や根に葉えい・根瘤をつくって寄生し、やがて樹を枯死させる。もともとはアメリカの土着害虫だが、
19世紀にヨーロッパに伝播、以後、世界各国に蔓延、人類のブドウづくりに史上最大の危機を招く結果になった。我が国にも明治15年(1882)、農商務省三田育種場がアメリカから輸入した苗木に付着して侵入、
以後各地で猛威をふるった。
フィロキセラに対して、アメリカ在来のブドウは抵抗性をもつが、ヨーロッパ種や甲州種は極端に弱い。とうぜんヨーロッパ種や甲州種を栽培していた各地の産地、わけても山梨県は深刻な被害をこうむった。
そこで農商務省は大正5年(1916)に、同県里垣村(現在は甲府市)に指定試験地を設け、その防除研究に本腰を入れる。神沢はこの試験地で以後20年間、フィロキセラとの戦いに取り組むことになった。
じつはこの時期、すでに海外ではアメリカブドウからフィロキセラ耐性台木が育成され、被害を回避できるようになっていた。だがだからといって、神沢の仕事が簡単に進んだというわけではない。
農家のための真の技術開発はここからはじまるからである。
神沢の研究は、まず我が国に侵入したこの虫の生態調査からはじまった。フィロキセラの生活史は根瘤型・葉えい型などときわめて複雑である。彼はこれを克明に調査し、その生態に即した防除法をつくりあげていった。
もちろん研究の中心は耐虫性台木の選抜にあった。海外の台木品種37品種について接ぎ木適性、その後の生育収量の調査を行い、我が国の「甲州」や「デラウエア」などに適した優良台木五品種を選定した。
また、この台木を使った接ぎ木法、被害成木を回復させる高接ぎ法などの開発改良にも努めている。
昭和10年(1935)、努力は報いられ、フィロキセラの防除研究は終結する。この間に試験地が養成し、全国各道府県に配布した耐虫性台木は12万本。さしものフィロキセラが影をひそめるようになったのは、
この台木の普及からだった。以後、我が国のブドウ栽培はほぼ100%、耐虫性台木に支えられて発展を遂げている。
神沢は彼の名を冠したカンザワハダニの発見者としても名高い。ブドウのほか、チャ・野菜にも寄生する大害虫だが、彼はその防除法も開発している。ほかにブドウヒメハダニ・オウトウショウジョウバエの発見と、
その防除法確立にも貢献した。試験場退職後は県の病害虫専門技術員をつとめるかたわら、自宅の田畑で水稲麦間直播などの試験を行い、農家を指導していた。温厚で技術一筋の人だったというが、
昭和29年(1954)、65歳で亡くなった。
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