【絵:後藤 泱子】
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ミカンがおいしい季節である。最近のミカンは果皮まできれいで、輝いてみえる。そんなミカンをみていると、一昔前の、果皮に暗褐色の粒つぶが点々とこびり着いたミカンを思い出す。
柑橘の害虫ヤノネカイガラムシで、果実のほか枝葉・幹に寄生し、木まで枯死させる大害虫と恐れられていた。今回はそのヤノネカイガラムシ制圧の功労者、静岡県柑橘試験場の西野操について述べてみよう。
ヤノネカイガラムシは中国からの侵入害虫で、明治31年(1898)に長崎県で発見された。体長3ミリほどのちっぽけな虫だが、以後80年にわたりミカン産業に多大の被害をもたらしてきた。
薬剤防除に限界があって、有効な防除法がみつからない。もちろん天敵による防除も考えられたが、害虫原産地の中国と国交がなかった当時、現地に足を運び有効な天敵を探すことは不可能であった。
昭和50年代になると、日・中平和条約が締結され、両国間の国交がさかんになる。おりしも、それまでの農薬一辺倒のミカンづくりが反省されはじめた時期でもあった。
ミカン王国静岡県がいち早く探索チームを中国に派遣することになったのは、こんな背景があった。
昭和55年(1980)秋、西野を団長とする探索チームは中国に出発する。四川・広東・浙江などの各省をめぐる1ヶ月の旅であった。彼らは四川省の農場で、寄生蜂2種の採集に成功する。
体長1ミリにも達しない虫だが、1種はヤノネツヤコバチ、もう1種はヤノネキイロコバチと命名されたが、とくに後者はのちに新種と認定されている。
寄生蜂の採集は普通、ビーティングによる。宿主がいそうな枝葉を棒でたたき、下に敷いたネットに落ちた蜂を吸虫管で吸いとるのである。こうして集めた寄生蜂は2種合計で1500匹ほど、
これを日本に持ち帰った。
ここからは持ち帰った寄生蜂の、我が国環境への適応と防除効果の調査がはじまる。さいわい、2種とも冬季の低温や夏季の高温に強く、我が国の環境によく適応した。都合がよいことに、
2種の寄生蜂はあたかも協力し合うようにして、ヤノネカイガラムシを攻撃する。放飼3年目ころから顕著な防除効果を示すことも明らかになった。寄生蜂の増殖法、放飼の場所・時期も検討され、
昭和57年(1982)から平成元年(1989)にかけて両種合せて430万匹が県内に放飼された。
2種の寄生蜂はまもなく全国各地に放飼され、千葉から沖縄までの柑橘地帯で顕著な防除効果を示した。平成12年(2000)には、さしものヤノネカイガラムシも植物防疫法の指定有害動物リストからはずされるほど激減した。
我が国農業における天敵利用は明治44年(1911)、ミカンの大害虫イセリアカイガラムシにベタリアテントウムシを導入、防除に成功したのを嚆矢とする。以来いくつかの成功例はあるが、
探索から定着までを一貫して手がけた研究者は西野らがはじめてだろう。ヤノネカイガラムシの防除に要していた経費は全国で年間50〜60億円。彼らの努力はこのぼう大な経費をカットし、
生産費や労働力の削減に大きく貢献したのである。
西野はめっぽう明るい性格で、お酒が入るとにぎやかだが、一方で面倒見がよく、部下にはつねに慕われていたという。平成9年(1997)、68歳で亡くなった。試験場退職後も生物農薬研究に励んでいたのに、
たいへん残念である。
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