【絵:後藤 泱子】
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最近は果物屋さんに「糖度〇%保証」と明示されたミカンやリンゴがならぶようになった。かつては食べてみるまでわからなかった果実のおいしさが、今では店頭ですでに確約されている。
なんとも便利な世の中がきたものだが、これも選果機の発達がもたらした奇跡だろう。そこで今回から2回にわたり、選果機の歴史について語ってみたい。
我が国の選果機の歴史は、大正13年(1924)に、広島県御調郡の農家藤田直義が発明したネーブルオレンジ用動力選果機からはじまる。
2ヘクタールのネーブル農家だった彼は、市場を訪れた際、手選別の不揃いさが果実の商品価値を下げていることを知り、選果機開発を思い立った。翌年にはさらに温州ミカンとの兼用機も発明、
「藤田式」の名で世に送り出している。
もっとも選果機の実用化という点からいえば、同じ大正14年(1925)に、広島県沖友産業組合が導入したアメリカ製機をあげねばなるまい。瀬戸内海に浮かぶ大崎下島の沖友地区(現在の豊町)は古くからミカン産地で、
3年前に共同選果場が設立されていた。導入した選果機はこの共選場に置かれたのだが、省力だけでなく、商品としての果実の評価を高める意味からも有効だったようだ。
昭和時代になり、太平洋戦争も終結すると、果実生産は年々増大する。選果機メーカーも多くなり、カンキツ以外も対象に各種の選果機が開発された。ここで当時の選果機のメカニズムに触れておこう。
当時の選果機はほとんどが「形状選果機」といわれるもの。小→大の孔をうがった回転ドラムやベルトでふるい分ける「ふるい式」と、狭→広の隙間から落下させ、分別する「間隔式」の二種があった。
昭和32年(1957)には重量で分別する「秤式」選果機も登場している。一時間当り200キロ程度を選別する家庭作業用の小型人力選果機から、3〜4トンもの選別が可能な共選場用の大型動力機まであった。
昭和30年代も後半になると、選果機産業はさらに躍進する。選択的拡大のかけ声の下にミカン・リンゴなどの大増産がはじまる。全国に大型共選場が設置され、選果機も、
荷受け→選別→包装→箱詰め→出荷をむすぶ一貫体系として求められるようになった。このオートメ化にはじめて成功したのが、「マルビシ工業」(愛媛県松山市)「白柳式撰果機」(静岡県浜松市)の2社である。
先日、その白柳式撰果機に鈴木栄一社長を訪ね、当時活躍された白柳喜和雄前社長の仕事ぶりについて、お話をうかがっうことができた。
もともと宮大工だった白柳は名人肌の人物で、設計図などいっさい無用。ひらめきだけで地面に図を描き、徹夜しても完成させたという。ただし、気が向かなければ翌朝はぶちこわしてしまう。
お酒ずきの奇人だったらしいが、こういう人たちの執念の積み重ねが、今日の選果機工業の隆盛を導き寄せたのだろう。
選果機開発で特筆すべきは、戦前から戦後にかけて、その開発を担った人の多くが、農業をよく知る民間発明家だった点である。
〈農家が丹精こめてつくった農産物の正当な価値を損ねることなく市場に送る〉
こうした情熱が、やがて世界に例をみない高水準選果機を生み出す結果につながっていった。冒頭に述べた内部品質保証がそれだが、以下は次号で述べることにしよう。
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