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日本のキュウリの原型、「落合節成(おちあいふしなり)
を育てた関野家の人びと


イラスト

【絵:後藤 泱子】

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 太平洋戦争がそろそろ激しさを増してきた昭和18年(1943)のことである。当時神奈川県二宮町にあった農林省園芸試験場種苗育成地に、ひとりの若者がキュウリの種子を持ってあらわれた。 関野廣曄(せきのこうよう)20歳、埼玉県与野町下落合(現在のさいたま市)の農家の息子であった。間近に迫った入営で、 同家が保有するキュウリの品種「落合節成(おちあいふしなり)」が散逸することをおそれ、保管を依頼すべく持参したのだという。入営とは軍隊に入ること、 いったん入営すれば生還を期しがたい時代のことであった。  
 
 関野家は種子商も兼ねたが、「落合節成」は同家の最重要商品だった。種子貯蔵技術が未発達だった当時、品種を維持するには、毎年畑に栽培して種とりをつづけるしかない。すでに兄たちは出征し、 人手が足りなくなった同家では、大事な品種の維持は育成地に依頼するしかなかったのだろう。  
 
 ここでキュウリの品種に触れておこう。わが国のキュウリは、渡来経路から華南系と華北系に大別される。両系ともさらにいくつかの品種群に分かれるが、落合節成は華南系の「青節成(あおふしなり)」群に属する。 「針ヶ谷(はりがや)」×「青節成」の交雑種と伝えられているが、関野家の言い伝えでは、この交配も廣曄の祖父関野茂七(せきのもしち)と父茂一(もいち)が行ったらしい。 明治末か大正のはじめに、東京の市場でみた青節成に魅了され、その足で種子を購入、地元の在来種「針ヶ谷」とかけ合わせたと伝えられている。原産地の地名から「落合」と名づけたという。  
 
 「落合節成」は強健で低温に強い。節成性の高い春キュウリで、促成〜早熟栽培に適する。適応地域が広く、1935年ころには全国各地で広く栽培されていたという。ちなみに「節成」とは各節に雌花がつくこと、 当然多収にもつながる。廣曄はその貴重な種子を育成地に持ち込んだのであった。  
 
 廣曄から「落合節成」の種子を預かったのは、育成地主任の熊沢三郎(くまざわさぶろう)だった。熊沢はのちに九州農業試験場長も務め、 〈野菜の神様〉といわれた野菜研究の大家である。「預けた以上、日本農業に役立ててほしい」という廣曄の願いに応え、以後この品種を育種素材に、新品種づくりに取り組むことになった。  
 
 熊沢がねらったのは、節成性を導入した〈四季成りキュウリ〉の育成であった。じつは「落合節成」は春キュウリで、夏以降の栽培には向かない。そこで華北系夏キュウリと交配し、 節成性を活かした夏キュウリづくりを進めていった。戦後、熊沢は久留米支場(福岡県久留米市)に移るが、仕事はつづけられた。昭和29年(1954)に九州農試園芸部(九州支場の後身)から世に出た 「夏節成(なつふしなり)」はその最大成果である。現在の日本産キュウリのほとんどが、この落合節成→夏節成の流れを汲むといってよい。 最近のキュウリはすべて一代雑種だが、その片親にも「落合節成」の血を引くものが多い。そのせいか、果形・果色に今も落合節成の面影が残っていると、いわれる。  
 
 京浜東北線与野駅のすぐ西側、今ではすっかり市街地と化した一画に、かつて関野家のキュウリ畑はあった。入営の直前に、廣曄が二宮まで届けた不世出の大品種の種子は、ここで採種されたのだろう。 だがその関野廣曄は、出征間もない翌年の昭和19年(1944)に、台湾で戦死している。行年22歳。若くして散った廣曄に、60年後の今日、彼の種子から発したキュウリが日本中の食卓を賑わしていることを報告できないのが、 かえすがえすも残念である。  
 
続日本の「農」を拓いた先人たち(67) 日本のキュウリの原型、「落合節成」を育てた関野家の人びと 『農業共済新聞』2005年2月2週号(2005).より転載  (西尾 敏彦)


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