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西日本の水田にイチゴを定着させた
本多藤雄(ほんだふじお)の「はるのか」「とよのか」


イラスト

【絵:後藤 泱子】

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 さる平成15年(2003)5月10日、九州地方の野菜農家と広い親交をもち、慕われてもいたひとりの研究者が逝った。元農林水産省野菜・茶業試験場(現在の野菜・茶業研究所)場長本多藤雄(ほんだふじお)である。

 本多が農家に慕われた背景には、育種家としての彼の実績があった。彼がつくった品種はイチゴ、トウガラシ、エンドウなど多数におよぶが、わけてもイチゴの「はるのか」「とよのか」を世に送り出した功績は大きい。

 今でこそ、イチゴは年中食卓にのぼるが、昭和20年代までのイチゴは露地ものが出回る初夏まで、なかなか庶民の口に入らない食べ物だった。昭和30年代になってプラスチック資材が普及すると、 作期の拡大が可能になる。しかし花芽形成が早く、休眠が浅く、しかも収穫期間が長いという促成栽培向け品種の育成となると、なかなか進まなかった。そこに登場したのが、「はるのか」である。 昭和42年(1967)のことである。ちょうど米余りが深刻化し、イネに代わる換金作物が切望された時期でもある。時代の流れにもマッチして、急速に面積を伸ばしていった。

 「はるのか」は多収で大果、糖度・香気にすぐれ、輸送性に富む。この品種の出現で、農家は11月から5月まで約7か月間、安定して収入を得ることができるようになった。西日本平坦地水田に、 イチゴの〈促成長期どり作型〉が定着したのは、このときからである。

 「はるのか」のもう一つの功績は、そのすぐれた特性を後継品種に引き継いだことである。その後継品種の代表で、さらにおいしさを増した品種が、「とよのか」だった。昭和58年(1983)に育成されている。

 「とよのか」は、「はるのか」以上に香気が高く、すぐれた輸送特性をもつ。特筆さるべきは、その無類のおいしさである。多汁質で、甘みが強く、酸味も適度のため、爆発的に普及した。 平成4年(1992)には東海地方にまで広がり、平成14年(2002)現在、全国一位、JA全農の出荷販売状況調査ではなお37%を占めている。同じ「はるのか」を親に、2年前に育成された栃木県の「女峰」と合わせて、 かつては〈東の「女峰」、西の「とよのか」〉と喧伝されたものである。

 わが国のイチゴ栽培面積は、現在7000ヘクタールほどだが、昭和40年代から平成初頭までは1万ヘクタールを越えている。その隆盛を支えたのが、ほかならぬ「はるのか」「とよのか」と「女峰」だった。 そのすべてに本多の息がかかっていることからも、彼の功績の大きさを知ることができるだろう。

 本多はあぜ道がよく似合う研究者だった。およそ研究者には二つのタイプがある。第一は学理追求に専心する学級肌、もう一つは農家のための技術づくりに情熱を燃やす現場派。本多は後者で、 つねに農家と語り合うのをたのしみにしていた。

 35年におよぶ彼の試験場生活はもっぱら野菜の品種改良に捧げられたが、場長の2年間をのぞき、久留米支場(現九州沖縄農業研究センター野菜花き研究部)で過ごしている。〈久留米の(ぬし)〉だった彼の周りには、いつも信徒のような農家がたむろしていた。

退職後は請われてJA全農福岡県本部に移り、九州地方の野菜農家の指導に当たった。全農退職後も、各地の農家をめぐり、持ち前のジョークを交えた話術で農家を魅了していたという。享年74、 心から哀悼の意を表したい。

続日本の「農」を拓いた先人たち(48)西日本の水田にイチゴを定着、本多藤雄が生んだ「はるのか」「とよのか」 『農業共済新聞』2003年7月2週号(2003).より転載  (西尾 敏彦)


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