【絵:後藤 泱子】
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「唄はちゃっきり節/男は次郎長……」
北原白秋作詞「ちゃっきり節」が聞こえてくる季節である。あの「ちゃつきり/ちゃつきり」の名調子は、茶摘みばさみからの連想だろう。歌詞の8番にも、「茶摘みばさみの/お手のはさみの/音のよさ」とある。
茶摘みばさみは大正4年(1915)、静岡県西方村(現在の菊川町)の鍛冶職内田三平によって発明された。ちゃっきり節が世に出たのが昭和2年(1927)だから、
はさみが普及しはじめた時期と一致する。農業技術が民謡に取り上げられた、これは数少ない例だろう。
茶摘みばさみができたのは、前号の高林謙三の粗揉機が発明されて17年後のことであった。このころになると、
製茶工程の機械化が完成する。当然、製茶機に合わせた多量の茶葉供給が必要になった。茶摘みばさみの発明はこうした情勢が生み出したものである。
もっとも、はさみ摘みがそれまでなかったというわけではない。明治43年(1910)ころ、一部の農家が試みていたようだが、普及していない。内田はこうした農家をみて、茶摘みばさみの発明を思いたったのだろう。
彼が考案したはさみは、一方の刃に添え板、他方に袋を下げる口金がつく。摘採と同時に、添え板に押された葉が袋に落ち込むしかけであった。最初は葉を金網かごに受ける型式だったが、
のちに収容量の多い木綿袋、ナイロン袋に変えられた。自宅近くに茶園をつくり、自分で試しながら改良を重ねたという。
茶摘みばさみはしかし、ただちに普及したわけではない。手摘みになじんだ茶樹は、はさみ摘みをすると古葉や枝片が混入する。品質劣化のため、一時、はさみ禁止の動きさえあった。せっかくの苦心作も、
倉庫で埃をかぶっていたという。
はさみ摘みが広く普及するようになったのは、第一次世界大戦以降のこと。この時期、茶の輸出高は2万トンを越える。労賃の急騰もあり、茶園労働の60%を占める茶摘み作業の省力化が強く求められた。
手摘みの10倍も能率があがるはさみ摘みはここから急増する。最盛期には年間10数万丁の売れ行きがあったという。
茶摘みばさみは、切れあじが持続し、扱いやすいことがかんじんである。切れ味が悪いと、切り口から滲出するタンニンが酸化し、茶の品質を低下させる。その点、内田のはさみは抜群の切れ味を誇った。
焼き入れを火色のよくみえる夜間に行うなど、彼のていねいな仕事ぶりが支えていたからだろう。出荷前には、彼自身が1丁ずつチェックし、送り出したという。
茶摘みばさみの普及で、茶の仕立て方が一変する。はさみ摘みに備えて摘採面を平滑に剪枝するが、それがつぎの機械化につながった。太平洋戦後の昭和20年代後半(1950)ころになると、
動力摘採機が奈良県の西岡英次郎や静岡県の勝見進作によって開発される。最近は自走式の乗用茶摘み機も走り回っている。
先日、菊川町に「内田刃物」を訪ねてみた。当主の内田忠夫氏は三平の孫で、今もはさみづくりをつづけている。最近は需要が減ったが、
それでも山間や年輩農家の注文が跡を絶たない。手作業の多いはさみづくりは、今日の工場生産にはなじみにくい。それでも「おじいさんのはさみを絶やすわけにはいかない」と、製作をつづけている。
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