【絵:後藤 泱子】
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昭和46年(1971)のこと。当時、東京西ヶ原にあった農業技術研究所(現農業環境技術研究所)の一室で、息をひそませ蛾の動きに見入る研究者がいた。玉木佳男である。
苦心の末に抽出した茶の大害虫チャノコカクモンハマキのフェロモン物質を、オス蛾に嗅がせてみたときのことであった。
昆虫の多くは交尾の際、匂い物質を放散して異性を呼ぶ。この物質を性フェロモンという。昭和36年(1961)にドイツの化学者ブテナントによって発見されたが、当時は単一物質と考えられていた。
玉木もそのとき、単一物質をオス蛾に嗅がせたのだが、まったく反応しなかった。「一瞬、ぼうぜん自失のありさまだった」、当時のことを彼はこう述懐している。
いったんは落胆した玉木だが、それからの行動が彼を世界的な大発見に結びつけた。精製したもう一つの物質を混ぜ合わせたところ、オス蛾が猛然と羽をふるわせ、興奮状態に陥ったのである。
〈性フェロモンには原則として複数成分が関係し、しかも種によって特異な混合比をもつ〉という彼の説は、以後新たな定説となり、世に認められていった。
玉木がここに至るまでには、長い研究の積み重ねがあった。昭和33年(1958)、東海近畿農業試験場茶業部(現在の野菜茶業研究所、静岡県金谷町)に職を得た彼は、チャノコカクモンハマキの人工飼育研究に着手する。
この研究が、のちのフェロモン研究の下敷きになった。
昭和42年(1967)、玉木は農業技術研究所に移る。ちょうどカーソンの『沈黙の春』が世に出て、農薬に警鐘が鳴らされはじめたころであった。かねてフェロモンに着目していた研究所が彼の実力を買い、
迎え入れたのであった。
ひとくちに性フェロモンといっても、メスが放散する超微量の匂い物質を単離同定するのには5万匹という莫大な処女成虫が必要とされる。当然、昆虫の大量飼育と、その人工餌料の研究が必要であった。
フェロモンの単離同定にはまた、複雑な化学分析と、それを可能とする高水準の機器の操作が欠かせない。玉木はこうした難問を一つひとつ解決していった。周囲の強力な支援があったことも、つけ加えておかなければならないだろう。
玉木とその仲間の研究によって、チャノコカクモンハマキのフェロモンがABCDの4成分からなること、うちAB2成分は近縁種のリンゴコカクモンの成分でもあることが明らかになった。
もちろん、それぞれの種に特異な成分の混合比も、究明された。昭和44年(1969)には、畑作物害虫ハスモンヨトウ・フェロモンの単離同定にも成功している。
昆虫フェロモンの研究はその後急速に進み、最近では20種類近くの合成性フェロモン剤が実用に移されている。当初は発生予察用トラップ(わな)の誘引剤としての利用が主だったが、最近は大量生産が可能になり、
オス成虫の大量誘殺や、雄雌の交信かく乱剤としても広く使われるようになった。これからは減農薬のホープとして、さらに普及していくにちがいない。
玉木は東北大学教授を最後に退職。現在は茨城県鹿島市のはずれに、自ら「里山環境生物学研究所」をつくり、自然に親しんでいる。インターネットで研究所のホームページをのぞいてみると、
捨てられた谷津田を復元し、畑づくりに汗を流す、いきいきとした体験エッセイが目につく。ご一見をおすすめしたい。
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