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世界を制覇した坂田武雄(さかたたけお)
100%八重咲きペチュニア


イラスト

【絵:後藤 泱子】

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 昭和40年(1965)の全米種苗審査会(AAS)総会は、ペンシルバニア大学で開催された。この日、一人の日本人が優良品種育成に最高の功績のあった育種家に贈られる特別賞「シルバーメタリオン牌」を受賞した。 外国人として初めてこの賞を受けたのは、坂田種苗(現サカタのタネ)の坂田武雄(さかたたけお)であった。  
 
 授賞は花や野菜で多数の優良品種を育成した彼の功に報いるものだが、なんといっても彼の最大功績はペチュニアの改良だろう。牌を手にする彼に注がれたのは、〈あれがダブル(八重咲き)ペチュニアのサカタか〉という憧憬のまなざしであった。  
 
 坂田が100%八重咲きペチュニア「オールダブル」を、はじめて欧米に輸出したのは昭和5年(1930)ごろ。それまでは八重咲きといっても、せいぜい50%、あとは一重が混じるというものであったという。  
 
 ここで、100%八重咲きペチュニア誕生の秘話に触れておこう。話は当時農事試験場にいた禹長春(うながはる)博士が、坂田から提供されたペチュニア種子を用い、 八重咲きの遺伝メカニズムを解明したことからはじまる。彼によって、八重咲きが単一の優性遺伝子に支配されていること明かにされた。  
 
 周知のように、八重咲きの花はメシベ・オシベが花弁に変化し、種子がとれない。ただしペチュニアはオシベが変じた花弁の先端に葯がつき、わずかに花粉をつくることがある。禹は純系化した八重咲きの花粉を一重の花に授粉すれば、 メンデル遺伝法則通り、F1(雑種一代)がすべて八重咲きになることを明らかにした。ちなみに禹はわが国農業研究に多くの功績を残したが、戦後父の祖国韓国に招聘され、同国の農業復興にも尽力している。  
 
 禹の理論は坂田の手で、実際の品種改良に応用された。品種は理論だけでは生まれない。育種家としての先見性、観察力があって、初めて優良品種は生まれる。坂田は若いときアメリカに渡り、 さらにヨーロッパにも足を伸ばし、4年間現地の園芸を勉強してきた。花の好み、色、形、栽培環境から病害虫に至るまで、現地を知り尽くした坂田なくして、あのオールダブルは誕生しなかったであろう。  
 
 オールダブルの種子が輸出されたとき、海外ではまだ八重咲きの理論に気がついていなかった。100%八重咲きペチュニアは驚異の(まなこ)で迎えられ、 飛ぶよう売れた。〈サカタの種子は金より高い〉と、シカゴの新聞が騒いだほど、高値で取引されたようだ。  
 
 だがこんなサカタの優位も、太平洋戦争の勃発で瓦解する。戦争で農場がサツマイモ畑に化している間に、海外でも八重咲きの謎が解明され、サカタをしのぐダブルペチュニアが登場するようになった。  
 
 壊滅的な打撃を受けた坂田だが、戦後みごとな立ち直りをみせる。ペチュニアでは赤白縞模様の新種「グリッターズ」で海外の失地を回復、国内向けでは「プリンスメロン」を発表、 「世界のサカタ」へと登りつめていった。温厚な反面、一度言い出したら後に引かないという彼の強い意志が、それをなし遂げさせたのだろう。今でこそ、花づくりは農業の主力になってきたが、 ほんの半世紀前までは脇役に過ぎなかった。そんな花産業を長年にわたって支え、今日の隆盛に導いた坂田の功績は称揚しても過ぎることがない。  
 
 昭和59年(1984)、坂田武雄は95年におよぶ波乱の生涯の幕を閉じた。「花の仕事には終わりがない」というのが、彼の口癖だったという。  
 
続日本の「農」を拓いた先人たち(69) 100%八重咲きペチュニア、世界を制覇した坂田武雄 『農業共済新聞』2005年4月2週号(2005)より転載  (西尾 敏彦)


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