【絵:後藤 泱子】
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新米のおいしい季節である。最近はどこの試験場も、食味向上に力を入れていて、良食味品種がつぎつぎ世に出まわるようになった。そこでこの良食味品種のルーツについてであるが……。
「西の旭、東の亀ノ尾」という言い伝えが、育種家仲間にある。
良食味品種をつくろうと思えば、明治時代に生まれたこの両品種の遺伝子を導入するのがもっとも近道、というのである。「コシヒカリ」も、「ひとめぼれ」も、そしてそれにつづく最近の良食味品種も、
この2品種の血を受け継ぐ後継品種の中から生まれてきている。今回はこの良食味米の元祖、「旭」について述べてみよう。
「旭」は明治41年(1908)、京都府向日町(現在の向日市)の農家山本新次郎によって見出された。
稲刈りの際、べったりと倒れた在来品種「日の出」の中に、たまたま倒伏に強い1株を見つけたのが、この品種のはじまりという。彼が59歳のときのことであった。
山本は若いときから研究熱心で、たびたび試験場に足を運び、技術の習得につとめていた。その熱心さが大発見につながったのだろう。翌年、さっそく種子を試作してみたところ、周囲の在来品種に比べ多収・高品質であり、
登熟すると鮮やかな黄金色を呈した。まもなく近隣の評判になり、種子を希望する農家が殺到した。
彼はこの品種を「朝日」と名づけ、こころよく分け与えている。命名はもとの品種、「日の出」にまさるという意味だろう。
山本の偉大さはこの品種をみつけただけでなく、その普及のため公正な評価を求めている点にもみられる。翌々年には、京都府農事試験場に試験を依頼し、その評価を得ている。このとき同名品種があったことから、
「旭」(京都旭)と改名された。もちろん好成績で、大正9年(1920)には京都府の奨励品種に指定された。彼はさらに各地の試験場に種子を送り、その評価と奨励を依頼している。
「旭」が躍進したのは、大正末から昭和前期にかけてである。この時期、米の販売法が升(容量)売りから秤(重量)売りに変わる。
同容量でも重さにまさる「旭」は、搗精歩合のよさともあいまって米穀商に歓迎された。やがて当時の主力品種「神力」に置き換わり、
昭和14年(1939)には最高50万ヘクタールにも達している。じつはこのとき山本はすでに亡く、この隆盛をみることはなかったのだが。
「旭」がきわだってすぐれた品種であったことは、各地の試験場がこの品種を材料に系統選抜を行ったり、交配親として重用していることからもわかる。「××旭」「旭○号」といわれる品種がそれで、
西日本一帯に広く栽培された。とくに岡山県では、現在も「朝日米」の名で4千ヘクタールが栽培され、地域おこしに貢献している。大粒でふくよかな味が、すし米や酒米として歓迎されているからだろう。
育成から1世紀、なおこれだけの人気を保つ品種はほかにないだろう。
東海道線の京都から西に2駅、向日町駅から徒歩約20分の物集女街道沿いに、
「朝日稲」の碑が建っている。大正3年(1914)の建立だが、往き来する車の排煙を浴びてか黒ずんでみえた。周囲はすっかり都市化したが、ここからは稲田もみえる。もちろん旭の血を引く品種が植えられているにちがいない。
山本はどんな想いで、この風景をみているだろうか。
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