【絵:後藤 泱子】
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このところ東南アジア各国の稲作を見て廻る機会が多いが、そこで目につくようになったのが、日本から持ち込まれた回転式「中耕除草機」である。
中耕除草機は除草のほか、有機質肥料を施用した水田で増収効果がある。中耕で土中に酸素が供給されることで、有機物が分解し、肥効が増すからだ。つまり除草と収量増をあわせて期待することができるわけである。
近ごろ国内ではあまり見かけなくなった中耕除草機だが、こちらでは少しずつ農家に浸透しつつあるようだ。
中耕除草機はわが国稲作史を飾る重大発明のひとつである。発明者は鳥取県小鴨村(現在の倉吉市)の農家中井太一郎で、
明治25年(1892)に特許を取得している。発明者に因んで「太一車」と呼ばれた。
中井が稲作改良に興味をもったのは明治10年代(1880年ころ)、40歳なかばも過ぎ、家督を息子にゆずってからのことであった。ちょうど明治初頭の動乱もおさまり、文明開化の波が農村にも押し寄せてきた時期である。
古い慣習の農業に飽きたらず、進んで改良の道を拓こうというのが、彼のこころざしであった。
明治17年(1884)、中井はまず「田植定規」を考案する。ハシゴの片側をはずしたような簡単な構造だが、これが正常植の普及に役だった。
中耕除草機はこの田植定規とセットをなすもの。定規で規則正しく植えられた田でなければ、除草機の活用はできないからであった。
じつは太一車が世に出る前に、これに似た回転除草機がなかったわけではない。西日本の一部では円筒に歯を立てただけの「田打転車」が使われていた。
中井の功績はこれを改良し、覆金具と爪車、羽根車をもつ中耕除草機として完成させたことである。覆金具で稲株をよけ、爪車で中耕と除草をこなし、
羽根車で跡をならす。爪をラセン式に配置し、後方に倒して除草と土壌の撹拌を確実にしたのも彼の工夫だった。太一車なら腰を曲げないで作業ができる。そのうえ正常植の効果も重なり、増収につながる。
当然、農家に歓迎され、広く普及していった。
中耕除草機には、その後、さまざまな改良が加えられる。だがその基本構造は太一車のそれとほとんど違っていない。ほんのこの間までの農家にとって、中耕除草機は鎌鍬同様、稲作に絶対欠かせない大切な農具であった。
とはいえ、中井の功績を中耕除草機だけに留めたのでは十分でない。太一車を普及させるため、彼は全国を遊説して廻るが、その行く先々で正常植の有利性や塩水選・短冊苗代の効果など、
当時の新技術を広めている。それまで無作為に、ただ苗を植えていた田植に代わり、良苗を正常植する習慣が定着したのは、中井の努力があればこそ。わが国稲作栽培技術の近代化は、中井の太一車を突破口としてはじめて達成されたといって、
過言でないだろう。
最近は国内でも有機栽培が注目を浴び、機械除草がもう一度見直されようとしている。高精度乗用除草機も開発されつつあるようだが、原点はやはり太一車にある。
〈仇をなす田草討取る車かな〉
とは、中井の著書『大日本稲作要法』にある句である。生涯を太一車と稲作改善にささげた中井太一郎は、大正2年(1913)、83歳で亡くなった。
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