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化学肥料事始め、開発にかけた
多木久米次郎(たきくめじろう)の一念


イラスト

【絵:後藤 泱子】

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 8月の暑い日、東京都江東区釜屋堀(かまやほり)公園にある〈化学肥料創業記念碑〉を訪ねてみた。碑文には  
「明治二十年初メテ此ノ地ニ東京人造肥料会社ヲ設立シ過燐酸肥料ノ製造ヲ開始セリ是レ我国ニ於ケル化学肥料製造ノ嚆矢ナリ」
とあった。背後には隣接する科学技術高校の校舎がみえ、高層マンションも建ちならんでいた。明治初頭に欧米に留学、過リン酸石灰の製法を学んだ高峰譲吉(たかみねじょうきち)が、 渋沢栄一(しぶさわえいいち)ら財界人の支援を得て、碑文の肥料会社を設立したのがこの地である。明治20年(1887)のことであった。 ちなみに高峰は、のちにタカジアスターゼ・アドレナリンの発明でも名をなしている。  
 
 わが国における化学肥料誕生の経緯については、碑文の通りだろう。そこでここでは、これとは別に独力で化学肥料開発に心血を注いだ、もうひとりの先人について述べておきたい。自らを「肥料王」と称し、 草創期のわが国肥料産業の発展に大きく貢献した、兵庫県加古川の多木久米次郎(たきくめじろう)がその人である。  
 
 多木がリン酸肥料の開発をこころざしたのは明治17年(1884)、25歳のときである。当時、この地方ではワタや稲の栽培に魚肥を使っていたが、価格が高騰、農家は困窮していた。家業が魚肥商でしかも村の勧業掛、 そのうえやり手の多木がこの状況を座視するはずがなかった。ちょうど海外からリン酸肥料の効用が伝えられた時期でもある。彼はさっそく放置されていた牛馬骨などを材料に、肥料開発に取り組んでいった。  
 
 最初に彼が手がけたのは、骨を粉砕しただけの骨粉肥料だった。ところが粉砕は意外にむずかしい。さんざん工夫を重ねた結果、蒸圧によって粉砕が容易になることを発見、翌年から販売を開始した。  
 
 ところが、せっかくできた肥料がなかなか農家には使ってもらえない。不浄な獣骨は田畑を汚す、というが理由であった。加えて蒸圧の際に出る悪臭で近所の非難を浴び、工場移転まで余儀なくされた。 だが彼はもちまえの行動力で、この難局を乗り越えていった。村々を歩き、骨粉肥料の効果を説き、ときには無料で配ってまわったという。そうした努力がみのったのだろう。やがて肥料効果が認識され、 注文が多くなっていった。  
 
 明治23年(1890)、多木はいよいよ骨粉を硫酸で処理する過リン酸石灰の製造に着手した。8年後には、燐鉱石を原料とする過リン酸石灰づくりにも進出していった。折しも日清・日露戦争の勝利で、 農村にも活気がみなぎっていた。農家は増収をめざし化学肥料を購入、おかげで多木の事業も軌道にのるようになった。わが国の稲作単収が上昇カーブを描くようになったのも、このころからである。  
 
 多木はやがて自らの会社を株式会社に改組、取締役社長に就任する。現在の「多木化学」である。後年はさらに経営を拡大、農具、鉱山、鉄道などの会社経営にも手を広げ、衆議院議員・貴族院議員として国政にも参画した。 バイタリティーの塊のような人だったらしい。80歳を過ぎても意気さかん、周囲に「わずか八十数歳の若者」と称していたが、昭和17年(1942)、83歳で亡くなった。  
 
 リン酸肥料から出発したわが国化学肥料生産は、その後チッ素・カリとつづき、今ではNPKだけでも年間約165万トンを生産している。最近は化学肥料偏重に対する反省もきくが、 今日の高生産農業を支えてきた功績が損なわれるものではない。先人たちの(いさお)は、これからも長く称えられていくだろう。  
 
続日本の「農」を拓いた先人たち(62) 草創期の化学肥料開発をけん引、単収向上を支えた多木久米次郎 『農業共済新聞』2004年9月2週号(2004).より転載  (西尾 敏彦)


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