【絵:後藤 泱子】
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自然界には、万古不易(ばんこふえき)の摂理というものがある。長い進化の過程で築きあげられた蚕と桑の結びつきも、そのひとつだろう。その固い連鎖の秘密を解きほぐし、
蚕の「人工飼料育」に道を拓いた「人工飼料育」の足どりについて、今回から2回に分けて述べてみたい。
〈蚕はなぜ桑しか食べないのだろう〉
誰もが当たり前と思ってきたこの命題に、最初に取り組んだのは、京都高等蚕糸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授の浜村保次だった。
昭和10年(1935)のことである。
浜村はまず、桑葉から香りの成分を抽出。ついで、この香りをしみ込ませた濾紙と、抽出カスの中間に蚕を置いたところ、蚕はすべて濾紙に誘い寄せられた。「なんだ、こんな簡単なことか」と、
彼は思ったそうだが、じつはここからが長い道のりであった。香りには誘引された蚕だが、濾紙には噛みつかない。蚕が桑を食べる行為には、(1)誘引、(2)噛みつき、(3)のみ込み、の3ステップがある。
そしてそのそれぞれに、これを引き起こす特定の化学物質が存在する。この事実に彼の研究グループが気がつき、これに関係する化学物質を突き止めることができたのは、それから20数年後、
昭和35年(1960)のことであった。
浜村の研究は学問的興味から発したものだが、この問題を養蚕の現場から追求したのが、当時の農林省蚕糸試験場であった。このころには、蚕の「年3回以上飼育」が可能になっていたが、
それに見合う多量の桑葉の安定供給となると、まだまだ問題が山積していた。
〈病害や気象災害を気にすることなく、良質の飼料を安定的に供給していきたい〉
蚕糸試験場の「人工飼料育」の研究は、この想いから出発したものであった。
蚕の一生を通じた人工飼料育に世界ではじめて成功したのは、蚕糸試験場の福田紀文らであった。奇しくも、浜村の研究成功と同じ、
昭和35年(1960)のこと。やや遅れたが、やはり同じ年に伊籐智夫らも成功している。
じつはこれにやや先んじて、同じ蚕糸試験場の吉田徳太郎らも成功一歩手前までいっていたようだ。蚕は通常4回脱皮をくり返し、
5齢で繭をつくるが、吉田の場合は繭づくり直前で病死してしまった。飼料原料は3組とも大差なく、いずれも桑葉の乾燥粉末約50%に、脱脂凍豆腐粉、
大豆粉、でん粉、砂糖などを添加したもので、これを蒸し羊かん状にし、薄く切って蚕に与えていた。
吉田、福田、伊藤と、同じ試験場で3組がほぼ同時に同課題に挑戦した。いかにも非能率といわれそうだが、それほど重要な課題だったということだろう。大発明は往々こんな競い合いの環境から生まれるものである。
研究中、彼らはお互い口もきかなかったというが、その競争心が成功につながったに違いない。
人工飼料育の技術開発は、この快挙を契機に、以後、急速に盛り上がりをみせていった。最初のうちは、桑に比べて繭のできが悪かったようだが、まもなく改善される。次回述べるが、人工飼料ができたことで、
蚕の栄養に関する研究が進み、これがまた人工飼料に反映され、一層の進歩につながっていった。
それにしても、最近の蚕糸業の衰退を反映してか、世界に誇る浜村や福田・伊藤らの快挙があまり知られていないのが、いかにも残念である。
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