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広食性蚕を育成した横山忠雄、
蚕糸試験場の蚕人工飼料育(2)


イラスト

【絵:後藤 泱子】

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 昭和40年代(1960年代後半)のこと。東京都小平市にある大日本蚕糸会の研究所で、蚕にキャベツを食べさせている風変わりな研究者がいた。横山忠雄、つい先年、14年間務めた農林省蚕糸試験場長を辞したばかりの大学者であった。 現役時代、蚕糸局課長・蚕糸試験場長と管理職生活が長かった彼にとって、退職後の研究生活は無上のよろこびだったようだ。研究所が茨城県阿見町に移った後も、都内吉祥寺の自宅から毎日通勤し、研究に没頭したという。  
 
 横山がめざしたのは桑以外の植物も食べる「広食性」蚕の育成であった。前回述べたように、当時蚕糸試験場では蚕の一生を通じての人工飼料育に成功している。ただ農家段階の人工飼料育となると、 まだほど遠い段階にあった。
〈実際の養蚕を考えるなら、人工飼料だけでなく、蚕の品種改良も必要だ〉
彼はそう考え、この研究に突き進んだのである。  
 
 じつは横山がこの研究に着手する以前から、蚕が桑だけを食べる行動には、ロの両側にある「小顋」という器官が重要な役割を異たすことがわかっていた。小顋を除云すると、蚕は桑以外でも食べる。 さらにX線を照射しても、食性異常蚕はできる。横山はそこで
〈人為的な突然変異で食性異常蚕ができるなら、自然条件にそんな蚕がいても不思議はない〉と考えた。さっそく蚕糸試験場が保存している品種を取り寄せ、蚕にキャベツを食べさせ、検索を進めていった。 もちろん普通の蚕がキャベツを食べるはずがない。ほとんどの蚕が斃死していったが、横山はあきらめなかった。くる日もくる日も探しつづけ、ついにいくつかの品種でキャベツを食べる蚕を発見することができた。 ここから彼はこの選抜個体を交配し、きびしい選抜をつづけていった。10数代にわたる選抜の結果、ついにキャベツのほか、梅・桜の葉からリンゴ・柿などの果実まで食べる蚕が生まれたのは昭和45年(1979)。 世界初の広食性蚕系統「沢J」の誕生であった。ちなみに「沢」は育種素材の保存地山梨県小淵沢を、「J」は日本種を意味する。  
 
 横山のこの研究は、蚕糸昆虫農業技術研究所(蚕糸試験場の後身、現在の農業生物資源研究所)にいた真野保久らにとって、大きな刺激になった。ちょうど、低コスト養蚕が強く求められていた時期でもある。 あらためて同研究所保有の育種資源が総ざらいされ、食性異常蚕の検索が進められていった。ただし今回はキャベツでなく、同所が蚕の栄養要求量を追求して開発した低コスト人工飼料「LP-1」を用い、 蚕を検索している。横山の研究開始から四半世紀後の平成2年(1990)、後継者の真野らによって、世界初の広食性実用品種「あさぎり」が育成された。最近はこれを超える広食性多糸量品種「しんあさぎり」「はばたき」なども育成されている。  
 
 広食性品種の出現によって1〜4齢を低コスト人工飼料で飼育し、5齢期だけを桑で育てる「1週間養蚕」が可能になった。だがその革新技術もその革新技術も、最近の蚕糸業低迷のなかで、 いまだに普及段階に至っていない。もう一度、蚕糸業が復活し、この革新技術が花開く日がくるとよいのだが……。  
 
 昭和55年(1980)、広食性蚕品種育成の始祖、横山忠雄は亡くなった。行年78。博覧強記、とりわけ後輩の面倒見がよい人たったという。広食性蚕は後輩への最期の贈り物なのだろう。  
 
続日本の「農」を拓いた先人たち(66) 広食性蚕を育成した横山忠雄、蚕糸試験  場の蚕人工飼料育 『農業共済新聞』2005年1月2週号(2005).より転載  (西尾 敏彦)


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