【絵:後藤 泱子】
(※絵をクリックすると大きな画像がご覧いただけます。)
|
昭和41年(1966)夏のある日、大きなアイスボックスを肩にした男たちが東京駅に集合した。農林省畜産局衛生課・家畜衛生試験場(現在の動物衛生研究所)などの豚コレラ防疫の専門家たちである。
ボックスの中身は家畜衛生試験場が開発したばかりの豚コレラ生ワクチン「GPワクチン」であった。当時、まだ実用化準備段階にあったものだが、高知県で大発生した豚コレラに緊急予防用として、
試験投与することになったのである。
「GPワクチン」は現地で何万頭もの豚に注射され、予想通り効果をあげた。さしもの豚コレラも1か月後には鎮圧されたという。明治以来、1世紀にわたり養豚家を悩ませてきた豚コレラは、
このワクチンの登場によって終息への道をたどることになった。
豚コレラは国際重要疾病にも指定されている難病である。病原体はウイルス。口・鼻から侵入し扁桃で増殖、血液やリンパ液とともに全身をまわり、臓器を侵す。致死率100%というが、初期症状がはっきりしないので始末が悪かった。
発見が遅れて、対策が後手になり、前述の高知県の事例のような事態も多かった。もちろん生ワクチン以前にワクチンがなかったわけではない。病原体を化学薬品で殺した不活化ワクチンだが、
発現までに時間を要し、個体差も大きいことから効果はイマイチであった。
豚コレラ生ワクチンの開発は昭和31年(1956)、家畜衛生試験場の熊谷哲夫らによってはじめられた。生ワクチンとは、
生きた病原体の毒性を弱めたもの。ちょうどアメリカで動物の培養細胞を利用してヒトの小児マヒ生ワクチンが開発された直後のことである。同じ方法で高性能ワクチンをつくろうというのが彼らの計画だった。
生ワクチンの開発は豚コレラの強毒ウイルスを動物の培養細胞で増殖させ、試験管内で何代も継代培養して弱毒化を図ることからはじまった。豚と遠縁の動物細胞でウイルスを培養し、弱毒化を早めるのである。
継代培養は手間と熟練と、弱毒化した変異株を見逃さない細心の注意を必要とする。そんなやっかいな仕事を豚の精巣細胞142代、牛精巣細胞36代、モルモット腎臓細胞で35代もつづけられたのは、
彼らが豚コレラ撲滅に一丸となっていたからだろう。10年近くつづいたこの研究には、延べ10人近くの研究者が参加している。
昭和40年(1965)、培養中のウイルスの中に、従来にない変異株が発見された。調査の結果、すべての点でワクチン株として最適であることがわかった。世界に誇る生ワクチン株「GPEマイナス」が発見された瞬間である。
発見者の清水悠紀臣はそのときのよろこびを「嬉しくて人生が明るくなったような気がした」と、回想している。
ここから「GPワクチン」の試作製造、野外試験を経て実用化に至る。実用化までに供試した豚の総数は数十万頭、協力者は国・県・メーカー併せて数百人に及ぶという。
昭和44年(1969)、国内の豚に対する「GPワクチン」の全面接種が開始され、わが国の豚コレラは激減した。平成4年(1992)以降、野外での発生はみられていない。
まさに歴史的な大プロジェクトであったが、これを受けて最近は生ワクチンを使用しない防疫体制が確立されつつある。ワクチンによる撲滅がワクチン自身を無用にしたわけだが、
これこそが技術開発の究極の姿であろう。
|