【絵:後藤 泱子】
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東京のJR山手線の田町駅から歩いて5分、港区芝5丁目にはNEC本社ビルがある。地上43階、高さ180メートルというこの建物はさながら宇宙に飛び立つロケットといった形で遠くからもよく見える。
今から150年ほど昔、ここには薩摩藩邸があった。江戸城開城で有名な西郷隆盛・勝海舟会談はこの辺りで行われたのである。
明治10年(1877)9月30日、当時三田四国町といわれたこの辺り4万5000坪(15ヘクタール)に海外新作物の栽培基地「三田育種場」が設立された。ほんの10年前、ここであった西郷・勝会談の当事者、
西郷隆盛の自決で西南戦争が幕を閉じて、わずか1週間後のことであった。
新設の三田育種場の場長は旧薩摩藩士の前田正名であった。前田はその前年、7年間のフランス留学を終え帰国したばかり。
持ち帰ったブドウ苗木1万本のほか果樹・野菜などの種苗を植えるのに、既存の内藤新宿試験場(今の新宿御苑)では狭すぎた。そこで同郷の内務郷(大臣)大久保利通に献策し、
新たに開設してもらったのが三田育種場だった。
育種場の圃場は4区に大区分されていた。第1区には国内産優良穀類など、2区にはリンゴ・ナシなど内外果樹が試験栽培され、3区は各種ブドウ苗木の育成に当てられた。
注目すべきは4区で、ここでは育種場の種苗のほか、各地から送られてきた家畜・種苗・農具・農産加工品が配布交換された。果樹の苗木はとくに人気が高く、リンゴ108品種、ナシ126品種、ブドウ100品種、
サクランボ31品種などが扱われたという。
なお三田育種場とは別に、近くの青山に「北海道開拓使官園」が置かれ、やはり種苗の生産配布をしていた。明治政府はリンゴ・ブドウなど欧米果樹の導入が農業近代化の切り札と考えたのだろう。
現在、わが国で栽培されているこれら果樹の多くは、このどちらかの苗圃に端を発したといってよい。今では都心1等地だが、明治の初めにはここが近代農業の発信基地だったのである。
ところで前田正名はのちに山梨県令(知事)や農商務省次官を歴任、野に下っても全国各地をくまなく行脚し、地方産業振興に生涯を捧げた人として知られる。政治家だが技術革新の重要性をよく理解し、
それまでの稲麦中心の農業から果樹・特産物にも目を向けた多様な農業を提案し、さまざまに力を貸している。民間に譲渡された「播州葡萄園」「神戸オリーブ園」の経営を、困難と知りながら引き受けたのも前田。
明治33年(1900)に、それまで道県バラバラだったリンゴ品種名を「国光」「紅玉」などに統一できたのにも前田の力が預かっている。
ともあれ三田育種場の誕生は、農業に作物・品種の選択がいかに重要であるかを知らしめた最初の契機となった。水稲の「神力」「愛国」「亀ノ尾」、ナシの「二十世紀」「長十郎」などの大品種がつぎつぎに誕生、
普及しはじめたのもこの時代からである。近代日本の幕開け西郷・勝会談の地は、近代農業発祥の地でもあったのである。
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