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北海道農業の礎を築いた
七重官園と湯地定基


イラスト

【絵:後藤 泱子】

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 「年の初め」にちなみ、農業試験場のはじまりについて述べてみたい。

 わが国最初の農業試験場は、明治5年(1872)に現在の新宿御苑所に創設された「内藤新宿試験場」がよく知られている。だがその2年前、明治3年(1869)に北海道函館郊外の七重村(現在は七飯町)にできたもうひとつの試験場、 通称「七重官園」「七重開墾場」についてはあまり知られていないようだ。

 もともとここは榎本武揚(えのもとたけあき)の幕軍がプロシャ人ガルトネルに永年貸与した問題の土地であった。明治政府がこれを買い戻し、 欧米農法試行の場とした。その後、「七重農業試験場」「七重勧業試験場」などと名称変更はあったが、明治15年(1882)開拓使が廃止されるまで、北海道農業近代化の発信基地として大きな役割を果たした。 最盛期には田畑70ヘクタール、牧場316ヘクタールのほか、近隣に広大な牧羊場・桑園などをもち、職員も研修生・雇を含めて160人以上に達したという。北海道農業近代化の父といわれるエドウィン・ダンが、 来道後最初に滞在したのも、この試験場であった。

 七重官園では欧米から輸入した乳肉牛・羊・馬などが放牧され、大麦・馬鈴薯、リンゴ・ブドウ、キャベツなど、さまざまな作物が試作され、洋式農機が試験されていた。水車場・農産加工場もあって、 ハム・ソーセージ・葡萄酒なども製造されていた。

 当時の七重村の風景を、この地を旅したイギリス人女性旅行家イサベラ・バードは、その著『日本奥地紀行』で、「整然とした洋風の村がりっぱな農作物に囲まれている」と記している。 欧米農業導入に燃えていた官園の活気が伝わってくる思いがする。

 ところで、官園の初代試験場長は湯地定基(ゆちさだもと)といった。明治8年(1875)に着任し、明治15年まで在任した。 東京の内藤新宿試験場は場長が定められていなかったようなので、彼がわが国農業試験場長の第1号だろう。

 湯地は旧薩摩藩士、藩命で渡米、のちに札幌農学校建学の祖となったクラークが学長のマサチューセッツ州立農科大学で学んだ。官園に7年在任したのち、当時短期間存在した根室県の県令に就任した。 ここでは農家に種イモを配ってジャガイモ栽培を奨めたことから、「イモ判官」とあだ名されたという。北海道は今もわが国最大のジャガイモ産地だが、こうした先人の努力が今日につながったのだろう。 晩年は男爵に敍せられ、貴族院議員にも勅選された。彼が夕張郡角田村(現在の栗山町)に開設した湯地農場は今もつづいている。ちなみに彼の実妹静子(しずこ)乃木希典(のぎまれすけ)大将の夫人。 明治天皇に殉じて夫と自刃した話を知る人は多いだろう。

 「七重試官園」はやがて道庁に移管され、明治27年(1894)に閉鎖された。跡地は今ではすっかり市街化し、七重小学校、七飯町歴史館などが建っている。歴史館には官園の昔を偲ばせる農具・資料が展示されていた。 七重小学校前の国道5号に今も残る赤松並木は明治9年(1878)の天皇行幸を記念して、湯地らが植えたものという。この松並木と小学校前の石垣がわずかに昔の面影を留めていた。

新・日本の農を拓いた先人たち(13)ジャガイモの栽培を奨励、北海道農業の礎を築いた七重官園と湯地定基 『農業共済新聞』2009年1月2週号(2009)より転載  (西尾 敏彦)


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