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道産米躍進のもうひとつの主役、
水稲「富国」を育成した山口謙三


イラスト

【絵:後藤 泱子】

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 前回は、昭和初年に農家が考案した「保護畑育苗」が北海道稲作躍進のバネになったことについて述べた。じつはこの躍進にはもうひとつのバネが働いていた。保護畑育苗発祥の地に近い北海道立農事試験場上川支場(現在の上川農業試験場)で、 山口謙三(やまぐちけんぞう)が育成した多収品種「富国(ふこく)」がそれである。

 「富国」は北海道の稲と府県の稲との交配によって生まれた最初の品種で、片親は東北の在来種「中生愛国」であった。もちろんそれまでにも交配品種がなかったわけではない。だが、いずれも道内品種同士の交配種だった。

 「富国」から、府県の品種との交配が可能になった背景には、直前にアメリカのガーナーとアラードが光周性理論を発見したという事情がある。これにより短日処理さえすれば、出穂のおそい府県品種でも開花を揃えて交配ができるようになったからである。

 府県品種の優良特性を取り入れた「富国」は短稈・穂数型で、倒伏に強く、多肥による増収効果が大きかった。草丈が10センチ以上低く、最初は農家も心配したようだが、実際に収穫してみると、 それまで5俵の田んぼでも6俵とれた。そのため普及の当初から農家に歓迎され、昭和15年(1940)には8万8000ヘクタール、北海道水田の55%に普及した。ちなみにこの作付面積は、 平成8年(1990)に「きらら397」の9万3000ヘクタールが生まれるまで半世紀間、破られることがなかった。

 だがその「富国」も、この昭和15年をピークに減退に転ずる。冷害で、いもち病が多発したためだが、多収を過信した農家が窒素を多投し、冷涼な不適地にまで作付けを拡大したことが原因といわれる。

 「富国」に代わって登場した品種のひとつが、やはり山口が育成した「栄光」であった。昭和17年(1942)に世に出たが、良質で多収、耐肥性・耐冷性にもすぐれ、多くの特性でバランスがとれた品種だった。 保護畑育苗との相性がとくによく、昭和27年(1952)には最大作付面積3万1000ヘクタールに達したが、その後も昭和40年代まで長く栽培された。育種素材としてもすぐれていて、良質多収で有名な「ユーカラ」はこの品種を片親にもつ。

 北海道の水稲平年単収がはじめて10アール当たり200キロを超え上昇に転じるのは、保護畑育苗と「富国」の普及がはじまった昭和12年(1937)以降である。保護畑育苗で稲の生育が早まり、 「富国」「栄光」などの中生種でも、存分にその多収性を発揮できるようになったからである。農家の創意から生まれた育苗法とこれを活かした上川支場の多収品種。今では500キロをはるかに超える北海道の多収稲作への道は、 この2つの技術がかみ合ったときに、はじめて拓かれたのであった。

 「富国」「栄光」の育ての親、山口謙三は愛知県の出身。北海道帝国大学卒業後、道立農試に勤務、昭和4年(1929)に上川支場長になった。ここで彼は18年間支場長の職責をまっとうするかたわら、 品種改良の激務にたずさわった。彼が育成した優良品種は他にも多く、晩年はその功で農林大臣表彰など、多くの栄に輝いている。温厚で口数が少なく、ひたすら仕事に励む人だったという。平成3年(1991)、 97歳で亡くなった。

新・日本の農を拓いた先人たち(23)水稲の育種をリードした鳥山國士、新手法で数々の品種を育成 『農業共済新聞』2009年9月2週号(2009)より転載  (西尾 敏彦)


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