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新たな育種法を開発し、
水稲育種研究をリードした鳥山國士


イラスト

【絵:後藤 泱子】

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 昭和29年(1954)の5月のある朝。段ボール箱1個が青森県農業試験場藤坂試験地(現在の農林総合研究所藤坂稲作研究部)に届けられた。広島県にある中国農業試験場から空輸されてきた稲苗である。 苗はただちに、赴任してきたばかりの試験地主任鳥山國士(とりやまくにお)らの手で圃場に植えつけられた。

 じつはこの苗こそ、中国農業試験場が育成した高度いもち病抵抗性系統であった。日印交雑のこの系統については前に述べた。同農試の北村英一(きたむらえいいち)が育成したものだが、 鳥山はこれに着目、試験中の苗の一部を譲り受けたのである。わが国初の高度いもち病抵抗性品種「シモキタ」はこの空輸苗の血を導入、昭和37年(1962)に育成された。

 藤坂といえば有名な田中稔(たなかみのる)が耐冷性品種「藤坂5号」を育成した試験場である。鳥山は田中の後任として赴任したのだが、その最初の仕事が「集団育種法」による水稲品種第1号「フジミノリ」の育成だった。

 集団育種法では交配後の初期世代を集団のまま維持し、固定化が進んだF5世代ころから選抜を開始する。多数個体を扱えて効率がよいため、現在の交配育種では主流だが、この方法を最初に実際育種に応用したのが田中と鳥山であった。 「フジミノリ」は昭和35年(1960)に世に出たが、最高21万4000ヘクタール、昭和41年(1966)から3年間、全国栽培面積の1位を占めている。

 その「フジミノリ」にガンマー線を照射し、短稈化した品種が「レイメイ」である。これも鳥山が農業技術研究所に照射を依頼し、その後代から選抜した。最盛期の作付面積は14万1000ヘクタール、 世界初の人為突然変異水稲品種として教科書にもとりあげられている。

 昭和37年(1962)、鳥山は中国農試に移る。ここで彼が最初に手がけた品種が、イネ縞葉枯病抵抗性品種第1号「ミネユタカ」であった。イネ縞葉枯病はヒメトビウンカが媒介するウイルス病で、 関東以南の稲作で被害が多い。鳥山は北村の日印交雑系統を再選抜し、縞葉枯病に強い1系統を見出した。「ミネユタカ」はこの系統の耐病性を導入した高度縞葉枯病抵抗性品種である。最近、 同病の被害が激減したのは、この品種とこれにつづく抵抗性品種の力によるものである。

 鳥山の新たな育種法による品種育成はさらにつづく。今日の飼料用稲につながる超多収品種第1号「アケノホシ」、調理用高アミロース長粒米第1号の「ホシユタカ」など。いずれもインド型・日本型を問わず、 広く遺伝資源を世界に求めて育成された新規用途用品種である。

 昭和61年(1986)、鳥山は農業生物資源研究所長を最後に農林水産省を退職、長い研究生活に終止符をうった。彼の研究歴をたどってみると、数々の新手法開発と、その手法を駆使して育成された「世界初・わが国初」品種で彩られている。 だがその輝かしい研究歴も、じつはその陰に、いつも現場の農家の悩みの解決に全力を尽くしてきた彼の研究姿勢があったことを見落としてはならない。

〈冷害地帯では耐冷性品種、病害発生地帯では耐病性品種を〉、その真摯な姿勢が画期的な品種の開発につながったのだろう。

 鳥山は今も壮健で、育種研究者の中心的存在として活躍されている。

新・日本の農を拓いた先人たち(23)水稲の育種をリードした鳥山國士、新手法で数々の品種を育成 『農業共済新聞』2009年11月2週号(2009)より転載  (西尾 敏彦)


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