【絵:後藤 泱子】
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技術の進歩はいちじるしいが、農業の現場には、まだきわめ尽くされていない問題も多い。昭和30年代後半に、水稲品種「ユーカラ」などで起こった、いもち病高度抵抗性の崩壊をみていると、そんな気がしてくる。
「ユーカラ」は昭和37年(1962)、当時農林水産省北海道農業試験場にいた岡部四郎らによって育成された。もともとユーカラとは、
アイヌ民族に伝わる口承叙事詩のこと。先祖から連綿と受け継がれたこの詩のように、〈時を超え、人を超え、受け継がれてほしい〉というのが、命名者の想いであった。
「ユーカラ」はその名のとおり、それまでの北海道育種の総力が集積された新機軸の品種であった。強稈・多収で、品質も当時の北海道米のなかではきわだってよかった。とりわけ注目されたのは、
当時最強といわれた中国原産稲の高度いもち抵抗性を導入したことである。これで、いもち病はシャットアウトできると、だれもが期待したものであった。
「ユーカラ」は普及当初から栽培面積を増やし、昭和39年(1964)には最高4万1000ヘクタールにまで達した。だが好事魔多し。この年、冷害に遭遇すると、あろうことか、肝心のいもち病が多発し、以後、
「ユーカラ」は急速に姿を消していった。あとでわかったことだが、高度抵抗性は病原菌の菌型(レース)が変ると、まったく効果がない。このときも抵抗性品種に対抗して、いもち菌もさらに共進化し、
抵抗性を崩壊させたのである。自然界の奥の深さをまざまざと思い知らされるできごとであった。
いったん姿を消した「ユーカラ」が再度よみがえったのは、昭和40年(1965)代後半、自主流通米時代が到来したときであった。この品種の品質のよさを知る北空知地方の農家が、普及所の協力を得て、
いもち病回避などで独自の技術を確立、復活させたのである。以後、20年近くも、同地の銘柄米として生きつづけた。この時期、鳴り物入りで誕生した多くの高度抵抗性品種がつぎつぎ消滅したなかで、
「ユーカラ」だけが生き残り、これほど長く栽培されつづけたのは、この品種がいかに農家に愛着をもたれていたかを示すものだろう。
「ユーカラ」は草姿が美しく、光合成に理想的といわれたため、その血を引く後継品種は多い。「イシカリ」「ゆきひかり」「きらら397」など。一時期、韓国で水田の77%、93万ヘクタールに栽培されたといわれる日印交雑多収品種「統一」も、
この品種の血を1/4受けている。
岡部はほかにも「テイネ」「キタヒカリ」などを育成した。だが彼を育種研究者としてだけ紹介するのは正しくない。北海道大学在学中、内村鑑三・新渡戸稲造に傾倒して農学部に進学、クリスチャンになったという経歴が示すように、
農林水産省在職中から海外農業援助に深い関心を示している。熱帯研究所長を最後に農林水産省を退職するが、その後はインドネシアにある国連の畑作関係研究所長として、東南アジア畑作農業の進展に貢献した。
いつも貧しい農民と同じ目線で人びとに接する彼の人柄が、この農業支援を成功させた大きな力となったのだろう。
平成17年(2005)、岡部は84歳で亡くなった。東京霊南坂教会での告別式は、故人の高潔な人柄を偲んで多くの人びとが集い、しめやかに執り行われた。
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