【絵:後藤 泱子】
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明治16年(1883)のこと。当時、東京駒場野にあった駒場農学校で、わが国初の農学士号の授与式が挙行された。式典は有栖川宮が臨席、農商務郷(大臣)西郷従道をはじめ政府高官多数が参列し、
盛大に行われた。
ところでこの晴れの式典で、農学科の授与者を代表して答辞を述べたのが、「諸学科優等第1」の玉利喜造であった。
彼はそのまま駒場農学校に残り、同校が帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)になると、その園芸学と畜産学の初代教授に就任している。たいへん博学で積極的な人だったらしく、園芸と畜産を一人で講義しただけでも驚きだが、
草創期の農学の広い分野に多くの足跡を残している。
玉利はわが国で最初に人工交配実験を試みた人として知られる。明治22年(1889)から、ワタ・大麦など4作物の人工交配を行い、30年(1897)には大麦で「大丈夫」「白玉か(禾に果)」など3品種を育成した。
彼はまた、この実験で雑種強勢の効果を認め、これを品種改良に利用すべきであると述べている。なにしろメンデル遺伝法則が再発見される以前のこと。どうやら選抜や固定が不完全だったようで、
どの品種もあまり普及しなかったが、その先見性は高く評価さるべきだろう。
玉利はまた、植物病理学にも足跡を残した。明治21年(1888)、東京周辺のキュウリに新しい病気が多発したが、ちょうどミシガン州立農学校で病理学を学び帰国したばかりの彼がこの病原菌を同定し、
「べと病」と名づけた。べと病はウリ類など多くの農作物で大被害をもたらす。家庭菜園の強敵でもあるこの病気の名づけ親が玉利であることを知る人は少ないだろう。
もちろん園芸学・畜産学などに残された玉利の足跡は多い。除虫菊は明治18年(1885)にアメリカに出張した玉利がカリフォルニアから種子を持ち帰り、駒場農学校の農場で栽培したのが最初。
ネーブル・オレンジは22年(1889)にアメリカ留学を終えた彼が苗木を持ち帰ったのが栽培の端緒といわれる。同年、彼が著した『養蜂改良説』はアメリカ式養蜂を紹介した書で、広く読まれた。
乳牛ホルスタインの優良種を駒場に導入した話も伝わっている。
玉利はまた単なる学問の虫ではなく、行動の人であった。地域農業に寄せる思いが強かった彼は同じ薩摩出身の前田正名とともに全国農事会を結成、
地方農会の育成に尽力した。明治36年(1903)には帝国大学教授の地位を捨て、新設された岩手高等農林学校の初代校長に就任している。6年後にはさらに故郷に帰り、鹿児島高等農林学校の初代校長として、
次代の農業指導者の養成に努めた。13年間、彼が校長をつとめた鹿児島高農の後身、鹿児島大学農学部には今も玉利の胸像が立ち、玉利池、玉利通りがある。昭和6年(1931)に亡くなったが、
彼の農業に寄せる想いは、今もこのキャンパスに生き続けているに違いない。
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