【絵:後藤 泱子】
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およそ100年の昔のことである。東京・西ヶ原にあった農商務省農事試験場の技師大工原銀太郎は試験中のポットをみて、
首をかしげていた。各地のカリ欠土壌を集め、塩化カリの肥料効果を試したのだが、ある土壌に播いた大麦が発芽せず、枯死してしまったのである。みると、使用した亜鉛製ポットも腐食し、小孔があいている。
〈土壌が酸性化したに違いない〉 とうぜん、彼もそう考えたのだが……。
じつは当時の欧米直輸入の土壌学では、酸性土壌は有機物由来の腐植酸によって生ずると考えられていた。だがこの土壌は花崗岩砂土で腐植は含まれない。そこで海外も含め各地の土壌を調べたところ、
同様な土壌がつぎつぎみつかった。世界の土壌学を変えた大工原銀太郎の酸性土壌の研究はここからはじまった。
明治43年(1910)、大工原は腐植酸に由来する酸性土壌のほかに、「鉱質酸性土壌」のあることを公表した。日本のような温暖多雨地帯の土壌では、雨水に含まれている水素イオンによって、
土壌の粘土鉱物表面に保持されるカルシウムなどの陽イオンが水素イオンに置き換わり、酸性土壌になりやすい。さらに塩化カリなど酸性肥料が加わると、粘土鉱物のアルミニウムが露出、
アルミニウムイオンが溶出して、作物生育をいちじるしく阻害する。大工原はこうしたメカニズムの酸性土壌が国内外に広く分布していることを明らかにし、その定量法とともに発表したのである。
大工原の研究を機に、全国規模の土壌調査が開始され、酸性土壌改良試験が実施された。大正期以降、全国各地で展開された土壌改良事業は彼の研究に負うところが大きい。
鉱質酸性土壌の発見は世界の土壌学に衝撃を与えた。彼の土壌酸度定量法はその後若干の改訂は経たが、現在も国際的な定法として世界中の教科書に採用されている。「置換酸度」というのがそれだが、
「ダイクハラ酸度」と呼ぶ国も多い。明治40年代といえば、わが国農学が一人歩きしはじめたばかりの時期である。彼の研究はそんな日本の農学を一躍世界に知らしめた金字塔といってよいだろう。
大工原は明治元年(1868)、天竜川上流の長野県南向村(現在の中川村)で生れた。もともとは鈴木姓だが、15歳で大工原家の養子になった。
明治27年(1894)、帝国大学農科大学(現在の東大農学部)を卒業、農商務省農事試験場に入り、以後の27年間をここで過ごした。大正11年(1922)に九州帝国大学教授、
大正15年(1924)には教授互選による最初の総長に選任された。敬けんなクリスチャンだったそうで、その人柄が買われたのだろう。退職後も同志社大学総長に招かれ重責を果たしていたが、
昭和9年(1934)、突然亡くなった。
2月のある日、中川村に大工原の生家を訪ね、当主の鈴木信氏からお話をうかがった。銀太郎の祖父房蔵は国学に熱心で、俳人としても多くの句を残している。庭先に老松が枝を伸ばしていた。
彼はそんな雰囲気の家庭で、この松をみながら、勉学に励んだのだろう。
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