【絵:後藤 泱子】
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近代日本の国営農業水利事業第1号といわれる「安積疎水」の古蹟をみたくて、猪苗代湖と郡山市を訪ねてみた。
安積疎水の開削はもともと日本海に注いでいる猪苗代湖の水を奥羽山脈を掘り抜いて郡山周辺の安積野に導き、水不足の原野を沃野に変えたわが国初のプロジェクトである。計画は江戸時代にもあったようだが、
本格化したのは明治9年(1876)のことであった。この年、福島に立ち寄った内務郷(大臣)大久保利通が福島県典事(課長)中條正恒の疎水計画を聴取したときからはじまった。
中條の提案は殖産興業や士族授産に熱心な明治政府に受け入れられ、ただちに実行に移された。途中、西南戦争や大久保の非業の死で一時中断するが、明治12年(1879)、ついに着工のはこびになった。
疎水はわずか3年で完成する。総延長127キロ、かんがい面積3000ヘクタール、所要労力85万人という大工事だった。政府や地元の期待がいかに大きかったかが、うかがわれる。
疎水工事と並行して、久留米・二本松藩など全国から9藩の士族500戸、2000人が入植、開こんが進められた。その際、士族10人に1人のわりで老農(篤農家)が招致されて入植、開拓の技術面を支えている。
おかげで士族授産としてはあまり成功しなかったが、入植者の技術は進歩し、安積野はやがて美田に変わっていった。
ところで安積疎水の基本設計はオランダ人技師ファン・ドールンによるとされる。たしかに用水量の測定など近代手法を紹介した彼の功績は大きいが、実際に調査・設計・
施工に当たったのは内務省勧農局(明治14年から農商務省)の山田寅吉・南一郎平らの日本人技術者だった。
山田は九州福岡藩の出身。15歳のとき藩命でフランスに留学、土木建築学を修めて帰国、設計主任を務めた。のちに官を退き、北海道の甜菜製糖工場や九州の鉄道建設で活躍する。
わが国土木工学草分けのひとりである。
いっぽう南は現在の大分県宇佐市の庄屋の子に生まれた。若くして地元広瀬井手(水路)の開削に挑み、120年がかりの難工事を完成させた。内務省出仕はその経歴が買われたのだろう。
計画当初から現地調査に参画、開削では工事主任として陣頭指揮をとった。完成後も疎水掛長として現地にとどまっている。彼はまた、那須疎水・琵琶湖疎水と、明治3大疎水事業のすべてに関係している。
安積疎水の灌漑地域は、昭和の新安積疎水事業と2回の大改修を経て、今では須賀川市周辺も含め9600ヘクタールにおよぶ。ほかに電力・飲料水の供給源としても大きな役割を果たしている。
旅の終わりに、安積開拓の拠点、郡山市開成館を訪ねた。開成館は洋風を擬した3階建て。いまでは街の真ん中だが、その昔この辺りは原野だった。館内にはここにあった開拓事務所や農学校の資料
・写真が展示されている。隣接地には入植者住宅も復元されていた。近くの開成山公園には安積開拓の偉業をたたえるモニュメント「開拓者の群像」が立っている。農業と農業技術がこの国の繁栄を支えきた時代の輝きを、
改めて確認できた旅であった。
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