「日本の農を拓いた先人たち」の執筆を終って |
平成6年(1994)の4月から今年3月まで、農業共済新聞に毎月「日本の農を拓いた先人たち」を書かせていただいた。途中2度ほど中断したが、足かけ17年間連載し、通算151回に及んだ。
愛読していただいた読者と貴重な紙面を割いてくださった共済新聞には、改めて御礼申しあげたい。
表題「日本の農を拓いた先人たち」の意味連載に当たって、最初に頭を悩ませたのは表題をなんとするかだった。「農業技術を創った……」とするのが素直と考えたが、それではなんとなく意を尽くせない。農業技術は単に農業改善に寄与するだけでなく、 この国の「かたち」をつくることに大きく貢献してきたことをぜひ知ってほしいと考えたからである。戦後の食糧飢餓に、「水稲保温折衷苗代」やサツマイモ「沖縄100号」がなかったら、この国の戦後復興はもっと手間どっただろう。昭和30年代に、除草剤・田植機・コンバインと続く省力技術が生まれていなかったら、 高度経済成長と人口の都市集中があれほどスムーズに進行したかどうか。良食味米の「コシヒカリ」、リンゴの「ふじ」、ブドウの「巨峰」がなかったら、日本人の食卓は今以上に外国農産物に席巻されていたに違いない。 農業技術の長い歴史をたどってみると、農業が、そして日本國が、壁に突き当たるたびに、技術がこれを切り拓く原動力になってきたことがよくわかる。そしてその技術開発の中心にあったのが、 ほかならぬ農家とその仲間の普及員・研究者等であったことが理解できるだろう。農業が今、冬の季節にあるとするなら、その責任の多くは技術の低迷にあり、これを突き破り春を呼び寄せることのできるのは、 農家を中心とする現場活力であるとわたしは信じている。農業技術は単に農業の進歩を支えてきただけでなく、日本人の生活の至るところにかかわりをもつ。「日本の農を拓いた……」と名づけた真意は、 そうした技術の力、とりわけ農家自身の技術活力のすばらしさを読者に伝えたいとの想いからだが、果たして伝えられたかどうか。振り返って、気になるところである。 技術史をたどるたのしさ、むずかしさ今考えてみると、この17年間はわたし自身にとっても、技術史を学ぶ最高の場であったように思う。毎月課題を選び、できるだけ関係資料を多く集め、それを読み込んでいく。読み込むことで、先人と一体化し、 彼らの想いに少しでも近づけたら、と考えてからである。農業技術の研究者として、これほどたのしい日々はなかった。資料を読んでいると、同じ事実というのに、複数の異なった記述に遭遇することがある。長い年月語り継がれていると異説も生まれるのだろうが、そんな時どちらが真実であるか考えるのもたのしかった。 とはいっても、執筆記事が掲載された後で、別の、より精度の高い新資料が見つかった時には冷や汗をかいた。いつか単行本にする機会があったら修正したいが、とりあえず以下の2つをお詫びとともに訂正しておきたい。 まずひとつは、有名な耐冷性水稲品種「亀ノ尾」の発見にまつわる秘話である。巷間、「亀ノ尾」は、発見者の もうひとつ残念に思っているのが、戦後長野県の農家によって確立され、今では国内総生産額345億円の大産業に生長したエノキタケ人工栽培法の創始者についてである。 通説では旧制屋代中学校の 読者との交流が励み執筆中、励みになったのは読者から感想が届いたことである。いつか北海道の「たこ足直播」について書いたら、お年寄りから軍用列車の窓から見た直播き水田の思い出について便りをいただいた。たこ足直播は戦時中にも残っていて、車窓から発芽直後の水田が剣山を連ねたように見えたという。 戦場に向かう兵士の目に映った直播き田の記憶は鮮明である。実際のたこ足直播き栽培をみたことのないわたしには、心に響く便りであった。 水稲いもち病抵抗性の母本「ピー・アイ系統」の育ての親、中国農試 今、たのしみにしているのは、水稲「愛国」発祥地の記念碑設立である。「コシヒカリ」など、現在の優良品種のほとんどが血を引く「愛国」は、これまで出自に複数の説があり、発祥地不明とされてきた。 5年ほど前にこの連載で「愛国の育成者はだれか、育成地はどこなのか。いつかは明らかにしたいわが国稲作技術史の謎である」と記したが、それがひとつの契機になったのだろう。その後、 なお、「日本の農を拓いた先人たち」151話のうち40話、37話は、それぞれ「農業技術を創った人たち」「農業技術を創った人たちU」として家の光協会から刊行している。 雑誌『NOSAI』 2010年7月号(2010)より転載 |
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