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農業研究から生まれた「ゲノム」

−その源流と今日の発展−

 「ゲノム」という言葉をご存じだろうか。最近は「イネゲノム」「家畜ゲノム」、さらには「ヒトゲノム」などと、テレビ・新聞にさかんに登場する。

 イネが発芽し、葉を茂らせ、豊かな稔りをもたらす。牛が草をはみ、乳を出し、子牛を生む。それぞれの生き物がその種に固有な生き方をする。ゲノムとは、 この生命現象のすべてを司る設計図で、生物が親から子に伝える遺伝情報でもある。

 ゲノムの正体が細胞の一つ一つにあるDNA(デオキシリボ核酸)であることが明らかになったのは、今から50年あまり昔、有名なワトソンとクリックのDNA二重らせん構造の発見からである。

 DNAのらせん階段には、アデニン(A)、チミン(T)、グアニン(G)、シトシン(C)の4種類の塩基が並ぶ。

 このA・T・G・Cの配列が設計図の暗号になっているのである。この暗号を解読し、遺伝子の働きやその発現機構が明らかにできれば、 イネの品種改良や優良家畜の作出が画期的に進む。ゲノム研究に期待が集まるのは、こうした理由からである。

ゲノム研究の源流

 ところで、この「ゲノム」研究の源流には、我が国の木原均(ひとし)京都大学教授が大きな足跡を残している。もともと、ゲノムはドイツのウインクラーの造語で、 花粉や胚など配偶子にある「1組の染色体」の意味で用いられていた。木原先生はこれに、今日のゲノム研究につながる遺伝情報としての概念を追加した。

 先生が試みたコムギの研究を、次に示そう。

 コムギ属の植物には、野生種の一粒コムギ、マカロニコムギなどの二粒コムギ、それにパンコムギなどの普通コムギがある。それぞれの染色体数は14、28、42で、 いずれも7の倍数になる。そこで、これらのコムギを交配して、染色体数の変化をみた。

 二粒コムギと普通コムギの雑種後代の染色体数は、初め28から42までの各数を示す。しかし栽培を続けると、最後は両親の染色体数28と42に一致する個体だけが生き残る。 つまり、コムギ属は7、14、21の染色体がセットになっていて、これをそれぞれ両親から受け継いだものだけが、正常な生育を遂げるというわけである。 木原先生はこの「生物が正常な生活機能を維持するために必要な最少単位の染色体セット」をゲノムと名づけた。昭和5年のことである。 ゲノムという言葉は、ここから世界に広まっていった。

世界をリードするイネゲノム研究

 木原先生が見つけたゲノムという宝箱から、今、少しづつ宝物が持ち出されようとしている。イネゲノム研究がその一つである。

 農林水産省のイネゲノム研究計画は、平成2年にスタートした。研究の中心は、農業生物資源研究所のゲノム研究チームとSTAFF((社)農林水産先端産業技術振興センター)技術研究所との官民共同のプロジェクトである。

 イネのゲノムは染色体で12本、DNAでいえば約4億の塩基対からなる。この中に、推定3万といわれる遺伝子が埋め込まれている。 この染色体を形づくっているDNAの全塩基配列を明らかにし、遺伝子を探り当てるのが、ゲノム研究の究極の目標である。もっとも、塩基の配列を全部解明するとなると、 途方もない労力と年月が必要になる。そこで試みられているのが遺伝地図の作成である。

 まず、品種や個体によって違うDNAの特徴的な配列をみつけ出す。一方、根などの組織から新しい遺伝子をみつけ出し、その塩基配列と機能を調べる。 これらを染色体上に、マーカーとして位置づけたのが遺伝地図である。すでに、約2300種のマーカーが登録されている。宝さがしも、目印があれば探しやすい。 マーカーが多くなれば、品種改良の際の標識になったり、遺伝子のとり出しに役に立つからである。

 それにしても、奴隷研究と陰口されるほど、労ばかり多く、研究者仲間にはあまり好かれないのが、ゲノム研究である。にもかかわらず、 今では世界中の研究者に評価され、押しも押されもせぬ研究の中心になっている。日本人のイネに関する思い入れと、担当した研究者の並々ならぬ努力が、 これを成し遂げさせたのだろう。

 イネゲノム研究の成果を受けて、平成6年からはマーカー選抜育種が始まっている。これまでの耐病虫性育種では、実際に野外で虫を放したり、 菌を接種しなければできなかった選抜が、マーカーを目印にすれば苗から室内でも選抜できる。食味や多収性など、複数の遺伝子が関与している量的形質も効率的に選抜できる。 品種改良の精度もスピードも、格段と向上するだろう。

 最近のトピックスとして、イギリスの研究者と共同でなされたイネとコムギのゲノム構造の比較研究がある。

 コムギゲノムの染色体が21本であることは前述したが、DNAは、170億塩基対と、イネの40倍にも及ぶ。この格段と大きいコムギのゲノム構造が、 意外にイネのそれに類似していることが最近わかってきた。コムギの染色体のあちらこちらにイネと同じDNA構造が、それもかなりの長さにわたって埋め込まれているのである。

 遠い昔、共通の祖先から生まれたイネとコムギ。その進化の証が、ここに秘められているのだろう。なんとなく、ロマンを感じる話である。

 同じような塩基配列の類似は、コムギ以外のイネ科作物にも認められる。イネゲノム研究は、他の作物の品種改良にも今後大いに役立つことだろう。

 家畜についても、ゲノム研究は進められている。こちらは平成3年から、畜産試験場・家畜衛生試験場とSTAFF先端技術研究所との共同研究で実施されている。 近い将来、ウシやブタの優良個体選抜に大きな力となるだろう。

 木原先生が見つけたゲノムという宝箱には、まだまだ貴重な宝物がびっしりと秘められているに違いない。この宝物が、これからの農業の飛躍的な発展に役立つ日はもうすぐそこにきている。

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