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日本のものの口の広さよ

−長粒米のおはなし−

 昨年の凶作の影響でタイから長粒米が緊急輸入され、話題になっている。連日のように、新聞やテレビに取り上げられ珍しがられているが、 長粒米とのつき合いならば、なにも今はじまったことではない。我々日本人は随分昔からこの米とつき合ってきている。

稲米ノ最悪の者

 「将官ノ外、皆赤米ヲ用イテ飯ト為ス。 形ハ瞿麦(くばく)ノ如ク、而シテ色ハ蜀黍(もろこし)ニ似ル。殆ド下咽ニ堪エズ。 蓋(けだし)シ稲米之最悪ノ者也。」

 いきなり漢文で恐縮だが、今から四百年の昔、文禄・慶長の役の際、肥前名護屋を訪れた朝鮮通信正使・黄慎が記した「交隣紀行」の一節である。 秀吉の文禄出兵は彼の思惑とは大きくくい違って一頓挫した。その際、講和のために来日した黄慎の眼に映った、当時の日本の食糧事情である。

 赤米とは、玄米のヌカ層にアントキアンの赤い色素を含んだインディカ米、いわゆる長粒米のことである。瞿麦はナデシコ・石竹。 小つぶな種子は瞿麦子と呼ばれ、漢方の利尿薬になるという。名護屋にいた兵は、まずくて最下級の長粒米を主食にしていたという記録である。

 黄慎には散々だったが、長粒米が日本人の食を支えた功績は大きい。古く、正倉院の御物や平城宮出土の木簡にも赤米の記録はある。 赤米には短粒米もあるが、ここは多分長粒米で、主に酒用に回されていたようである。



形・色の異なるさまざまの米がある
(下段中央2粒が日本の品種
原図:丸山 清明氏)


大唐国伝来の大唐米

 はっきり長粒米と目される米が栽培されるようになったのは11世紀頃からで、華中から西日本に伝来したと考えられている。 当時は「大唐米、太米(たいまい)、とうこん」などと呼ばれていた。16世紀半ばに出た日本最古の農書「清良記」によれば、 もち・うるち併せて8種類の「太米」が南伊予で作られていたという。

 文禄・慶長の役は「清良記」とほぼ同時代の出来事だが、名護屋に駐留していた兵の数を思えば、よほど大量の長粒米が周辺の西日本各地で生産されていたと考えざるを得ない。

 長粒米は寒さには弱いものの、旱魃、痩せ地、湿田など、不良環境に強い。また虫害が少なく、長期貯蔵が可能なため、江戸時代には当時の新田開拓熱ともマッチして西日本の各地で大いに普及した。 商品価値が低く、年貢米に適さないことが逆に幸いして、自家用飯米や規制外商品として農民に歓迎されたのだろう。

  「日本のものの口の広さよ/大唐をこがし(香煎)にしてや/の(飲)みるらん」

 室町後期、俳諧の始祖といわれた山崎宗鑑の連歌集にある。質より量と、なんでも工夫して食べた日本人の口に、自らあきれる庶民の声が聞こえてくる。

 明治以降、長粒米は急速に姿を消す。品種改良・施肥改善など技術の進歩が長粒米を必要としなくしたのだろう。ただし、食卓にはもう1度登場する。 敗戦後の飢餓の時代、全国民の空腹を満たしてくれた「外米」としてだが、評判はあまり芳しくなかった。

よみがえる長粒米

 20年余り前、長野県善光寺平の直播田で雑草化した「とうこん」が一斉に芽を出し、手を焼いたことがある。代かきを止めた土中から生え出たものだが、 それまでどうして生き残っていたのか、ただただ驚嘆させられる。

 生えてきたのは田の中ばかりではない。バイオの進歩によって、今まで不可能とされていた遠縁の作物間・品種間の遺伝子の交換が容易になってきた。 こうなると、多様な環境の中で生き抜いてきた長粒米が大変な遺伝資源にみえてくる。病虫害に強い品種、超多収品種、カレー・ピラフ等多用途米品種など。 すでにいくつかの例はあるが、さらに画期的な品種が生まれてくるだろう。

 長粒米の名誉のために言っておく。長粒米がおいしくないと感じるのは、この米が日本人の食生活になじんでいないせいである。 東南アジアで2年間を過ごした私の経験では、あちらの環境・あちらの調理法で食べた長粒米はけっこうおいしかった。

 ガット・ウルグァイラウンドが決着し、米も部分自由化の時代に移る。日本人の食の文化が変わってしまう、と心配するむきもあるが、気にすることはない。 もともと食文化とはご先祖さまの生命と引き換えに、それぞれの風土の中で創り上げてきた民族の知恵の集積である。少しぐらい変わり物が混じってきても、 やがてあの「広い口」で飲み込み、噛み砕き、日本人の食文化に同化させてしまうだろう。

  「日本のものの口の広さよ/アメリカ米も世界の米も車に代えてや/飲みるらん」だ。

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