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生命の神秘、クローンの話

−ウイルスフリーいちごとクローン和牛−

悟空の「分身の法」

 「悟空は毛をひとつかみ抜きとると、口に入れて噛みくだき、ぷっと吹き出して、呪文をとなえ「変われ!」と、ひと声叫ぶと、 それはたちまち幾千・幾百の小猿に変わって……」 

 『西遊記』(岩波文庫)に出てくる、孫悟空「分身の法」の一場面である。

 まったく空想の世界と思われていたこの分身法が、近ごろは少しずつ現実味を帯びてきた。分身はバイオの用語でいえばクローンだが、 そのクローン植物や動物が農業の世界に登場しはじめてきたからである。

 クローンができれば、生産性が高く、すぐれた形質をもつ作物や家畜を、短期間に殖やすことができる。生育がそろって管理がしやすく、 増収にも役に立つ。増殖がむずかしくて高嶺の花とされた園芸作物を、大量に消費者の手もとに届けることもできる。これからの日本農業の力強い味方として役に立っていくことだろう。

「分身の法」の奥義は分化の「全能性」



培養器の中で育った
イネのクローンの芽(写真)
 動物でも植物でも、大多数の生き物の体は細胞の集合体である。 人間は60兆の細胞からできているという。樹齢何百年という大木では、もっと途方もない数だろう。 ところで、その一つ一つの細胞には、 環境さえ整えば完成な個体にまで生長できる不思議な力が秘められている。生き物が造化の神から授かった「全能性」といわれる能力である。 人類がこれに気づいたのは20世紀も初頭のことであった。

 昭和33年、アメリカのスチュワートはバラバラにしたニンジンの細胞を試験管で培養し、一つの細胞から完全な植物体を育てることに成功した。 人類が創った最初のクローン生物だった。もっとも、農業の世界でクローンが登場するのはフランスのモレルからである。昭和35年に、 ランのクローン苗を大量増殖することに成功したのである。

 モレルはウイルスの無毒化研究を手がけていた。ウイルス病にかかった作物でも生長点は侵されない。そこで生長点細胞の全能性を利用して、 苗に育て上げようした。それが偶然、クローンの大量増殖にむすびついた。培養中の組織がバラバラに分離し、一つ一つが個体に生長したからである。

 モレルの成功はいち早く、我が国にも伝えられた。昭和40年代には、農事試験場の濱屋悦次さんたちの努力によってサツマイモ、ジャガイモ、イチゴなどで、 クローン苗ができている。ランなどの花のクローン化は、もっぱら民間育種家の手で進められた。

 クローン苗の技術開発によって、シンビジウムなど、かつての高嶺の花が、今では大衆の花に変わった。イチゴやサツマイモでもウイルスフリー苗が普及し、 増収に役立っている。現在、栽培されているイチゴの6割は、ウイルスフリー苗を利用したものである。

 写真は培養中のイネのクローンの芽である。これからは多くの作物で、クローンが利用されていくだろう。

シャーレの中の「マウスの萌芽」



わが国で最初に生まれた
人工妊娠の子牛(新鮮胚)
後は受卵牛と供卵牛(昭和39年)
 ところで動物ではどうだろう。作物とちがって、家畜のクローンづくりはむずかしい。残念ながら今のところ、 受精卵(写真参照)以外からのクローン動物はできていない。もっとも、動物の研究はまだこれからということでもある。

 動物では、受精卵の分裂がある段階まで進むと分化の方向が定まり、全能性が失われていくものらしい。でも、ということは、 分化の初期の段階にはまだ全能性が残っているということでもある。

 平成2年8月20日、朝日・日経など各新聞は一斉に「クローン牛誕生、大量生産の新技術実証」の記事を掲げた。千葉の農家で、 16分割期の受精卵をバラバラにした細胞からクローン和牛が誕生したのである。畜産試験場にいた角田幸雄さん、千葉県畜産センターの江藤哲雄さんたちの共同研究の成果である。 畜産試験場では最近、32〜64分割期の卵細胞からクローン牛が生まれるようになっている。

 もっともこの方法では、屠場から別の牛の卵巣を採収し、その除核した卵細胞と融合させる操作が必要である。これを体外培養した上で、 借り腹の母牛の胎内に移植するのである。今後すぐれた血統の牛を大量に殖やす技術として役立つことだろう。

 クローンによって、さらに目をみはる未来が拓かれようとしている。「胚性幹(ES)細胞」の出現である。10年ほど前、イギリスのエバンスがつくりあげた。 分裂中のマウスの卵細胞の一部をとり出し、全能性をほぼ維持したまま、実験室で培養ができるようにつくり変えたものである。 いってみればシャーレの中に生えている「マウスの萌芽」のようなものだ。やがてこれからクローン動物をつくる時代がやってくるかもしれない。

 もっとも、現在のES細胞の研究は、遺伝子組替え動物の作出に重点が注がれている。ES細胞を他の妊娠マウスの胎内(胚盤胞)に注入すると、 胎児の発生に組み込まれる。当然、生まれてくるマウスは母マウスとES細胞の両方をもつキメラマウスになる。

 キメラはギリシャ神話の怪獣だが、今では両親以外の組織細胞が組み込まれた生物体をいう。キメラが生殖細胞に及べば、ES細胞由来の遺伝子をもつ精子や卵子ができ、 次世代以降に遺伝子を伝えることができる。あらかじめ実験室でES細胞に外来の遺伝子を導入しておけば、容易に遺伝子組換えマウスを誕生させることができる仕組みである。

 残念ながら、今のところ家畜のES細胞はできていない。現在、各国の研究者がしのぎを削って研究しており、近い内に成功するだろう。

 そうなったら、インフルエンザ抵抗性の遺伝子を導入した健康ブタだの、インターフェロンなどの医薬用たんぱく質を乳液から分泌する乳牛などが生まれることだろう。

クローン技術の新しい展開

 クローン技術の展開の場は、単に農業や畜産業だけにとどまらない。これからは繁殖がむずかしかった資源植物の保全や、絶滅が心配される希少動物の繁殖にも役立つようになっていくだろう。

 農業は今きびしい環境に置かれている。「分身の法」が悟空の危急を救ったように、クローン技術が低迷する農業を救うことを期待したい。

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