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「ミイデラ」の語源のナゾこの欄の73回目で「ヘッピリムシ(放屁虫)」の話を書き、その正体がミイデラゴミムシという小甲虫で、刺激を受けると腹端から爆発音とともに悪臭を発射することや、ミイデラの語源が不明であることなどを紹介した。いっぽう、中国で明代の16世紀に李時珍によって著わされた有名な『本草綱目』は、17世紀はじめに長崎に渡来し、家康に献じられ、これが江戸時代を通じての日本の本草学の原典となった。 そして多くの国産の動植物がこの本を元に"同定"された。ミイデラゴミムシも例外ではなく、この本の中で、「夜行性で、触ると臭いを出し、ゴキブリに似る」と記載されてあった「行夜(こうや)」という虫がそれであるとされた。 さらに寺島良安はその著書『和漢三才図会』(正徳3年<1713>)で、「行夜」の俗名として「へひりむし」を挙げ、「ゴキブリとは似ていない。触れると音を出して屁をひり、大変臭い」と記している(図)。 なお、『本草綱目』の「行夜」の正体についてはトウヨウゴキブリとする説があるという(荒俣、1991)が、その出典は定かではない。 この臭い虫に「ミイデラ」という名が冠されたのは、小野蘭山の『本草綱目啓蒙』(享和3年<1803>)が最初らしく、「行夜」の別名として、「ヘコキムシ」「ヘヒリムシ」「カメムシ」と並んで「三井寺ハンメウ」と記されている。 また、「ハンメウ」の名は、これをハンミョウ科の甲虫と誤認したためであるが、そのまま「ミイデラハンミョウ」の名は訂正されることなく近代まで「コウヤ」とともに用いられた。そして、 昭和7年(1932)刊行の『日本昆虫図鑑』(北隆館)においてようやく「みいでらごみむし(新称)」と改称された。 ところで、前報で触れたように、この虫につけられた「三井寺」については、語源不明とされていたが、ぼくはかねてこの真相が気になり、足の裏に飯粒が付いたような気分が心の片隅に残っていた。 語源は絵巻『放屁合戦』ところが最近、たまたまある会合でゴミムシ類の専門家である滋賀県立琵琶湖博物館の八尋克郎氏にお会いし、たいそう興味深い話を伺った。つまり、大津市の三井寺は昔たくさん寺があった一帯の地名で、 この地で一番の大寺に「円満院門跡」がある。この寺は歴代の門主に高僧を輩出し、鳥羽絵の始祖で国宝の『鳥獣戯画』の作者で知られる鳥羽僧正もその一人であった。そうした関連から、 この寺の付属の「大津絵美術館」には各種の鳥羽絵が残されていて、その代表作品のひとつに『放屁合戦』という絵巻物があるという。八尋氏によると、実物は横幅45cmほどの20枚の絵が横につながった全長9mに及ぶ絵巻物で、 末尾には、「狩野近信所蔵のものを、寛保3年(1743)に鳥羽僧正の末流である権僧正の盤松という僧侶が写した」旨の添え書きがある由である。この絵巻は、抜粋した複製が円満院門跡から魔除けのみやげものとして販売されていると聞き、早速注文したところ、肉筆筆書きの立派な送り状と由来記を添えて現物が届いた。それは縦15cm、 横14cmの方形の折本に半数の10面が抜粋複製されたミニチュア版で、価格は3千円であった(写真)。また、由来記によれば、「鳥羽絵のなかでももっとも愉快なものにして、放屁の模様を合戦風に巧みに見立てた、 軽妙・洒脱・風流な絵なり。とくに古来より悪魔退散魔除けとして知られる」とある。八尋氏によれば、原本では巻頭から2枚目までの絵は、まず合戦に臨み秘策を練る図で、3〜5枚目は腹ごしらえの図。 ついで6枚目からは両者東西に分かれてのさまざまな趣向によるはなばなしい放屁合戦の模様が終わりまで延々と続くという。ただし、この絵巻には勝負の決着がない。これについて由来記は言葉を続ける。 「各様式に従い会戦の運び、いずれが勝ちにて候や、いずれが負けにて候や、勝ち負けは聞きもらし候ことなれど、合戦が放屁とも相成れば、いずれ霧散し果てしものと存ずる」と。 結局、八尋氏との話で、「ミイデラ」の名前の由来はおそらくこの絵巻だろうということになった。名付け親(小野蘭山?)が、かねてこの絵巻物の存在を知っていて、 「コウヤ」のオナラの習性と結びつけて命名したことはいかにもありそうな話である。ぼくの勧めもあって、八尋氏は早速周辺の関連事項まで詳しく調査して甲虫類関係の雑誌に発表し(八尋、2004)、 この小文もそれによるところが大きい。ぼくもまた、八尋氏のおかげでようやく足の裏の飯粒がとれた気分である。 (引用文献)荒俣 宏(1991)『世界大博物館I蟲類』、平凡社 八尋克郎(2004)ミイデラゴミムシの語源、地表性甲虫談話会会報、第1号 [「虫けら賛歌」より改変、2009、創森社] |
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