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クモの糸

 クモの仲間ほど生活に“糸”を多用している動物はほかにない。クモは糸で網や隠れ家を作り、獲物を縛り、卵をくるみ、糸を道標に歩き回る。また、糸を吹き流しにして空を飛ぶ(バルーニング)ことすらできる。クモには網を張る「造網性」のものと、自らはい回って獲物を狩る「徘徊性」のものとがあるが、ともにその行動は「糸の織りなす世界」なのである。

 クモの糸は腹の中の紡績腺で生産され、尿にある糸いぼ(多くの場合3対)から使用目的に応じて多種類の糸を出し分ける。クモ糸の主成分はタンパク質で、その理化学的性質は絹糸とよく似ているが、伸び率はクモ糸の方がはるかに優れ、道標に使う“しおり糸”などは、絹糸よりも強靱である。

 芥川龍之介の短編『蜘蛛の糸』では、お釈迦様が極楽から蓮池の底の地獄に、救命ロープの代わりにクモの糸を垂らす。ぼくはこの話を中学の国語で習ったが、その時の友人の質問と教師の回答が秀逸であった。「先生、蓮池のハスはどこから生えているのですか」「それはあの世の神秘である」。

 また、博物学者で小説家のハドソンの南米を舞台にした小説『緑の館』(1904)には、クモの糸で紡いだ服をまとった妖精のような少女が登場し、世界中の男の子がクモ嫌いを棚にあげてそのロマンチシズムに酔った。

腹面側から見たジョロウグモ
(連続して700mもの糸を出す:
全農教原図)
 ジョロウグモでの調査によれば、連続して出せる糸の長さは最高700mだったという。クモによっては自分の網を食べてまた糸に還元するので、効率を単純に比較できないが、この長さは、カイコの絹糸の1,500mと比べても相当なものである。クモの糸だって産業的に利用しないテはないように思える。

 エナガなどの一部の鳥はクモの網を集めて自分の巣を作る。しかし、クモの糸の理化学的性質が絹に比べて遜色がない割りには、ヒトがこれを利用している例はパッとしない。針金や竹の輪にクモの網を集め、セミやトンボを採る遊びは、昔ぼくも経験がある。また、ソロモン諸島にはクモの巣を集めて作ったルアーを凧糸から垂らす“凧漁”がある。凧を揚げるとルアーが水面をたたき、体長1mもあるダツが獲れるとか。

 クモの巣の薬用としての記録も多い。「網を服の襟に入れておけば健忘症が直る(中国)」などは怪しげだが、クモの巣の止血効果の記録も古くから多く、シェークスピアの『真夏の夜の夢』にもその記述がある。クモの糸には凝固剤が含まれているという近代の報告もあり、あながちただの迷信ではなさそうである。クモの糸の繊維としての利用例もあり、特に、フランスでニワオニグモの卵嚢の糸から靴下や手袋が試作され、当時の万国博覧会に出品された話はよく知られている。

 ただ、クモは肉食動物で、大量飼育がきわめて困難である。ぼくの試算では、その生産コストは絹の1万倍を越える。しかし、絹糸とは異なるその特性は、新たな素材として魅力が大きく、近年はその遺伝子レベルでの解析がアメリカや日本で進行し、バイオテクノロジーの素材として注目され始めている。まだ当分先のことになろうがクモ糸の産業的利用の芽は着実に育ちつつある。

オオヒメグモと卵のう
(屋内性のクモ、その卵のうの糸が
標準器の十字目盛りに利用された)

 もっとも、クモ糸は最近まである産業の重要な資材になっていた。アクションドラマでおなじみの銃の照準器の十字目盛りがそれで、強靱で弾力性に富み、温度変化にも狂わない特性は、人工繊維の遠く及ぶところではなかった。またこの目的のためには、屋内性のオオヒメグモの卵嚢を包む極細の糸が最高とされていた。この話は有名で現在でもクモの随筆などで散見されるが、近年の工学技術の発達を考えると、このジャンルで今なおクモの糸を使っているはずがない。ぼくは銃機メーカーに知人がなく、まだ調べる機会がないが、そのあたりの経緯をご存じの方がおられたら、ご教示いただければさいわいである。

[研究ジャーナル,22巻・3号(1999)]



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