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異郷のキリギリス


プロローグ


 鳴く虫が商品化された歴史は古い。江戸時代の中期には「虫売り」が商売として成立し、スズムシなどは高度の飼養技術が開発されていた。また、鳴く虫をカゴに入れて声を楽しむ風流は、 平安時代にすでに貴族階層に流行していた。だから、この習俗は少なくとも千年の時を越えてわれわれに引き継がれていることになる。

 ただ、こうした感性はほとんど東洋、それも日本人と中国人だけの特性で、欧米人にとって虫の声はただの雑音にすぎない。日本の脳生理学者の研究によれば、 人間の脳は左右で機能がちがい、日本人は鳥や虫の声を、言葉や音楽と同じ左脳で聞いているのに対し、欧米人は雑音を聞くのと同様に右脳で聞いているという。 もっともこれは人種による生得的な相違ではなく、子供の時代に日本語の持つ特殊な音感で育ったかどうかで決定されるというが、あるいは宗教的な背景にも由来しているのかも知れない。


北京で友人からキリギリスを託されたこと


 1995年の夏、資源昆虫の調査で虫仲間の東京農業大学の河合省三氏らと中国を旅したさい、北京でたまたま居合わせた同じく虫仲間の蚕糸・昆虫農業技術研究所の若村定男氏と会食した。 そしてそのとき、帰国寸前の若村氏からキリギリスのオスが1匹ずつ入れてある2個の小さい虫カゴを託された(写真1)。中国にはさまざまな容器がある。 それらには大別して声を楽しむキリギリス用と、闘わせて賭博に使うコオロギ用とがあり、前者はコウリャンや竹製のカゴ、後者はヒョウタンや素焼き製の容器が多い。 若村氏から託されたそれは、コウリャンのヒゴで編み、虫を入れてから入口を編みふさいだ素朴な“密室カゴ”であった。氏が河北省石家荘の露店(写真2)で入手したもので、 1個がわずか1元(約16円)であったという。

写真1(上)
若村氏に託されたキリギリスのカゴ
(直径7cm)
写真2(左)
キリギリス売り
(1995年8月、河北省石家荘で
若村貞男氏撮影)

 若村氏が現地で聞いた話によると、浙江省の田舎では、庭に麦わらで作った大きな虫小屋を何層にも積みあげ、その中でキリギリスを飼っている農家が多いという。 しかもその声は、老人や子供が病気にならない効果を持つとの伝承もあるそうである。最近読んだ元国立民族博物館の周達生教授の『民族動物学』(1995)によると、 キリギリスの主産地は河北省や河南省などに数か所あり、一部は養殖まで行われているらしい。それが採集職人の手で全国に運ばれて売られている由だが、 その価格を考えるとこうした行商人の生活が成り立つことがむしろ不思議に思える。周氏によると、声の鑑賞用としてほかにスズムシやカンタン、クサヒバリなども売られているが、 とりわけキリギリスの人気が高いとのことである。また、日本ではキリギリスの餌はキュウリが“定番”であるが、中国では枝豆やご飯粒を与えているという。 こうした飼育法の分化は、栄養学的にむしろ中国の方がすぐれているといえる。

 さらには、オスを複数で飼うとよく鳴き、行商人が来るとその大合唱が遠くからでもわかるそうで、オスどうしの組み合わせは経験上の知恵らしい。鳴く虫の声は、 オスがメスを呼ぶためのラブソングであることはよく知られているが、コオロギなどではそのほかに、他のオスに対するなわばりの防衛など、目的に応じて幾通りにも鳴き分けることが明らかにされている。 キリギリスの場合も、鳴かせるためにオスどうしをペアにするのは、科学的にも根拠があるものと思われる。


キリギリスが暖かく遇されたこと


 さて、くだんのキリギリスは身動きもままならないせまいカゴの中で、互いが競合するかのようによく鳴いた。受け渡しの場所となった北京の中国料理店でも、 声を聞いたウェイトレスが集まり、いつまでもカゴを取り囲んでいた。つかのま、彼女たちはふるさとへの郷愁に浸っていたのかもしれない。

 その後カゴのキリギリスは、ぼくのバッグにぶらさがって、成都、峨眉、昆明へと2,500キロの旅を続けた。どこでも彼らは人気者であった。飛行機の中で鳴き出すと席を立って見にきた客、 のぞいてほほえんだスチュワーデス、ホテルでも頼まないのに餌を運んでくれたルームメイド……などなど。心なしか持ち主のぼくまで暖かいまなざしで見られているような気がした。

 悩みもあった。若村氏がこれをぼくに託したのは、「昆虫民俗学」が好きなぼくへの好意であったにちがいないが、こうした食植性の昆虫を生きたまま日本に持ちこむことは、 植物防疫法で禁止されている。ぼくに託したのはうまい処分法だったともいえる。託されたものの、ぼくはかつて植物防疫所の禄を食んだことのある人間である。 若村氏にもまして、違反を承知で持ち帰ることはできない。ますます元気に鳴き続ける彼らを見て、最後にどうするかを考えあぐねていた。


キリギリスとの突然の別離のこと


 キリギリスを道連れに一週間、ぼくたちの調査団は雲南省まで南下して省都昆明に到着した。そして翌朝、ホテルのフロント嬢から思いがけない申し入れがあった。 隣室の客から「虫の声がうるさくて眠れない。このホテルは部屋で動物を飼えるのか。早急に善処しろ」とのクレームがついたという。そこで、「申しわけないが虫をフロントに預けてほしい」とのことである。 ぼくのキリギリスが受けたはじめての非難であった。それにしても「部屋で動物を飼えるのか」とはなんと可愛げのない言いぐさではないか。念のためその客の国籍を聞いたら、 やはりアメリカ人であった。“右脳人種”相手ではとてもケンカにならない。と、あっさりあきらめた。こうして決断のときは突然やってきた。

 フロントに預けても、まもなく処分を考えなければならない。後を託す適当な第三者もいない。外に逃してやる方策も考えた。しかし、鳴き声が日本のものとはちがい、 より美声であることが気になっていた。そうなると虫を生活(たつき)の糧としてきた者の悲しい性(さが)で、せめて標本を持ち帰り、同定するのがスジとの結論にいたった。 しかし、職業がら無数の虫を殺りくしてきたぼくでも、この旅の伴侶を自分の手にかけることはしのびなかった。そこで、名古屋大学出身で、 いつも通訳を頼んでいる中国の若い虫仲間の劉建軍君を呼んでその作業を押しつけた。劉君はひとりでカゴをバスルームに運んで熱湯をかけたが、 その熱湯はいささかぬるかった。カゴをこわしてキリギリスを取り出して検分すると、まだ動いていて、ぼくは滅入った気分でそれをアルコールチューブにおさめた。

 まもなくフロント嬢から問い合わせがあり、殺して標本にしたことを告げると、彼女はたいそう怒った。「私が預かるといったではないですか。なにも殺すことはないでしょう!」と。 ぼくはこの心やさしいお嬢さんに返す言葉がなかった。


エピローグ


 帰国後、ことの顛末を若村氏に報告したら「いい話ですね」と感想を述べてくれた。市場経済の導入で拝金主義が横行し、トラブルが少なくない最近の中国で、 この事件はささやかないい思い出としてぼくも長く記憶に残ることであろう。

 ぼくの耳にはありし日のあの朗々たる鳴き声があざやかに残っている。そして、老人や子供が病気にならないという、その魔除けの声を抹殺したタタリはすぐにきた。 帰国後、たちまち風邪と疲労で寝込む仕儀となったのである。

 なお、ぼくの耳は正しかった。この仲間の分類の専門家である東京都立大学の山崎柄根教授のご教示によれば、日本のキリギリスは特産種で、 中国のそれはやはりGampsocleis gratiosa という同属の別種であった。

補 遺

写真3  北京の瑠璃廠で飼われていた
チュウゴクキリギリス
 翌年(1996)の11月にまた中国に出張したとき、ぼくがいつも好んで訪れる北京の骨董街の瑠璃廠で、季節はずれのキリギリスの声を聞いた。 そしてそれはある一軒の骨董店で、中国特有のヒョウタン製の容器に入れて大切に飼われていた(写真3)。 キリギリスは卵で越冬し、成虫は秋のうちに死に絶える。こんな時期まで成虫が生きていることはまず考えられない。聞けば、通常の野菜などのほかに、 ミルワームを与えているという。ミルワームは甲虫の幼虫で、穀物で簡単に増やせることからペットの餌として世界中で使われている。 あまり知られていないが、キリギリスは多くの動物性タンパク質も栄養としている。日本ではキリギリスに生き餌を与える人はいないが、 この点も“鳴く虫分化”の日中の違いであろう。また、こうしてうまく飼えばなんと翌年の4月ころまで生きているという。この瑠璃廠のキリギリスも、 その翌年に訪ねた時に聞いたら、3月まで生きていたそうである。そんなに長生きできるのは種類の違いか、ミルワームのおかげかは良くわからないが……。

[ユリイカ,27巻・14号(1995)]



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