これはぼくが農業技術研究所(現・農業環境技術研究所)の昆虫科長を勤めていた1980年(昭和55)ころの話で、
当時つくば市は新興の学園都市として建設途上で、現在は閉塞感のある隣の土浦市の方がまだ”都市”の面影があった。
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ぼくが住んでいる筑波の研究学園都市は、巨大な田舎でちっとも「都市」ではない。もっとも近い都市は、これもあまり都市らしくない土浦市である。
先日、その土浦市のKデパートから電話があった。以下、その電話のやりとりのあらましである。
「タランチュラというクモの取り扱いについて教えてほしい」
「私はクモの専門家でないのでご期待にそえないと思うが、いったい、デパートとタランチュラとなんの関係がありや?」
「じつは、当店で来週4日間、世界の宝石展というのを開催する。そのさい宝石の盗難防止のため、巨象を倒すという猛毒のタランチュラをショーケースのなかに放すことにした。
しかるに、この恐ろしい毒グモの扱いをだれも知らず困っている。まげて助けてほしい」
――ぼくはたまげて――
「泣きたいくらいユニークな発想に敬意を表する。されど、タランチュラに猛毒などない。タランチュラはもともとヨーロッパに住むコモリグモの1種で、これが舞踏病の媒介者と信じられ、
猛毒伝説が生まれた。転じていつのまにか、熱帯圏に住む大型のトリクイグモの仲間までタランチュラと呼ばれるようになり、十把ひとからげで猛毒と信じられるに至ったものである。
キバが大きく、咬まれると痛そうだが、本物もニセ者もともに毒性は弱い。毒でなら巨象はおろかネズミ一匹殺せまい。また、トリクイグモ科の最大種は体長10センチ、脚を広げると18センチにもなるというが、
これもトリを常食にしているというのはウソで、カエルや昆虫を食べて生活しているそうである。おそらく貴店で使おうとしているのは、このトリクイグモの仲間と思うが、
ガラがでかいというだけでとても宝石を守れる実力はない。たぶんクモはひねりつぶされ、宝石は盗まれるであろう」
――先方はひどくたまげて――
「ちっとも知らなかった。クモは手配済みだし、どうしたらいいであろうか」
「それはそちらの考えることで、私に聞かれても困る。しかし”猛毒”と標示すれば、何と言っても巨大なクモだからそれなりの心理的効果はあろう。私は近所のよしみで黙っているからご勝手に……」
「それを聞いて少し安心した。会期中に何を餌に与えればよいか。また、終了後、どうやってクモを処分したらよろしいか」
ぼくは降ってわいたように、この珍しい大グモがタダでゾロゾロもらえるかもしれないと考えて、恩着せがましくこう申し出た。
「クモは水を与えておけば会期中に死ぬことはない。心配なら豚肉をピンセットで口もとに突きつければ食べる。また、処分にはさぞ困るであろう。あとは全部私が引き取って差し上げよう。
うちは虫を殺すことを専門にしている研究所である」
「それは大変ありがたい。ぜひ会期中に一度ご来店の上、ご指導いただきたい」
「まことに多忙ではあるが、なんとか一度伺うようにしよう。(以下は考えただけで言わなかった)なお、不気味な大グモを引き取るのだから、ついでに宝石の1〜2個をつけてくれるとありがたい」
かくして、ぼくの側は定温室の一隅に飼育箱を並べ、大グモのご入来をみんなで楽しみに待つこととなった。
宝石展の数日前、そのことを告げる折り込み広告が新聞にはさまっていて、“巨象を倒す毒グモ” が “時価3億円の宝石を守る”ことが予告されていた。また、それにはタランチュラについてこんな解説がついていた(図参照)。
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タランチュラ(コモリグモ科)
●毒グモとして恐れられる。昼間は地中にほった管状住居の中にひそみ、夜その近くを歩き回る。
〈体 長〉 | めす 28〜32ミリメートル |
| おす 23〜25ミリメートル |
〈分布地〉南ヨーロッパ |
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当時の新聞折り込み広告(部分)
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宝石を護衛するタランチュラことトリクイグモの一種(1980年11月)
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この記述はおそらく百科事典で調べたことに、「毒グモとして……」の一文を追加して作成したものと思われるが、中身はヨーロッパの “本家” タランチュラコモリグモのことをいっている。
実際に用いたクモはこれではなく、やはりもっと大きいトリクイグモ科の “ニセ” タランチュラであった。
多忙なはずのぼくは、宝石展の初日にはもう接写カメラにフラッシュ持参で、いそいそとKデパートに出向いた。
くだんのクモの種名はぼくにはわからなかったが、かつて中央アメリカで捕まえたものと似ていたので聞いたところ、やはり南アメリカ産とのことであった。
さて、ショーケースのなかのクモたちは、宝石を守る気概などさらさらなく、いずれもケースの隅で、これ以上縮みようがないくらいにからだをすくめ、じっと恐縮していた。
せっかく出向いてまるでアテがはずれたことは、デパート側のかん違いで、“買い取り” と思っていたクモが、じつは “リース” であったことである。デパート側は、
「これで研究所のお手をわずらわせずにすみました」とニコニコしていたが、「親の心、子知らず」とはこのことだと思った。考えてみれば、そううまい話がやたらにあるわけがないのである。
ここに掲げた写真はそのとき撮ったものである。撮影はデパート関係者の尊敬のまなざしと、一般客の恐怖のまなざしのなかで行われた。この写真は、ぼくにつつかれて逃げ場を失い、
恐れおののいているクモの姿である。しかし、ぼくがショーケースを開き、写真うつりの良い場所へクモを素手で追いやったときには、まわりからぼくの勇気をたたえるどよめきが潮騒のようにわきあがった。
とにかくこの一件はぼくに二つの教訓を残した。「あわてる乞食はもらいが少ない」の再確認と、こんな計画が世に通用するようでは、クモの研究者や愛好家が世間に認知される日は遠いということである。
なお、日本にはクモの仲間が千種も分布しているが、そのうちススキの葉を捲くカバキコマチグモという種だけが攻撃的で、“毒グモ” といえるほどの存在ではないものの、これに咬まれると人によってはあとがかなり腫れることがある。
しかし、そのほかに怖いクモなどひとつもいない。にもかかわらずクモを怖がる人は多く、その姿形からもゴキブリ並みに嫌われ、ついでにクモ好きまでまともな人間の扱いを受けていない。
このため、クモ好きは懸命にクモのイメージ是正につとめているが、それは一層悪くこそなれ一向に好転のきざしはない。そういうぼくもクモはあまり好きではない。日ごろ世話になっている昆虫よりも脚が2本も多いことに加えて、
翅がないくせに昆虫を主食にして生活していることが気にいらない。それでも、豆粒のような小さいクモや、トリクイグモのようなばかげて大きいクモは何ともないが、そこらへんにいつもいるジョロウグモやオニグモなどは、
なぜか素手でさわることなど考えもおよばないのである。
ちなみに、Kデパートでは、リースのトリクイグモを会期中に死なすと1匹4万円の補償金を払わなければならないといっていたが、全匹死なずに無事動物リース会社に戻されたのは、いまいましくも何よりであった。
蛇足ながら、後日Kデパートから、謝礼のつもりかどうかはわかりかねたが、「社内特別割引販売会招待券」がとどいた。また出向いて、4万円引きという背広を1着買った。
これが一件のお礼にクモを1匹もらったのと同じかんじょうになるのかどうか、いま、じっと考えているところである。
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[初出:「クモと宝石」環境衛生、28(1):1〜4(1981)−一部補筆]
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