キチキチバッタぼくの古巣の果樹試験場は、筑波に移転する前は湘南の平塚にあった。 その広大な敷地は、かつての海軍火薬工廠の跡で、一角には幽鬼のような当時の廃屋が残り、その周辺にはたくさんの草むらが点在していた。 そして夏ともなれば、この草むらに、おびただしい数のショウリョウバッタが発生した。このバッタは、飛ぶときの羽音から俗にキチキチバッタとも呼ばれるおなじみの種類で、 さまざまな青草を食べて生活し、牧草の害虫としても知られている。ある年の夏、当時小学生だった息子が、夏休みの自然観察の宿題に困って泣きついてきたので、このバッタの体色とすみ場所をしらべるアイディアを提供してやった。このバッタの大部分の個体は緑色であるが、一部、茶色の個体もまざっている。息子が不熱心に調べた結果によると、昼間、緑色の個体は青草の上に、茶色の個体は枯れ草の上に止まっていて、ほとんど例外がないことがわかった。現象的にこれは見事な保護色と思われた。子供の宿題に、親がちょっかいを出すこととした。 カケスとモズ人間の眼で見て、この見事な保護色が、主要な捕食者の鳥に対してはどうなのだろうか。うまいぐあいに手持ちの鳥が二羽あった。
一羽はカケスで、幼鳥をひろって自宅で飼っていたものである。たったひとつだけ人語を話した。何をやっても必ず「ワカッテル」というのだ。 もう一羽はモズで、当時の天敵微生物研究室の於保室長が、やはり赤むけのヒナをひろって、研究室で飼っていたものである。このモズは、ウイルス病にかかったハマキムシの幼虫を食べさせられ、 糞がこの病気の伝ぱん源になるかどうかの実験に供され、粗末な育て方のわりには、やたらと働かされていた。 日曜実験さて、小箱に青草かまたは枯れ草を敷きつめ、その上に胸を押して半殺しにした緑色と茶色のショウリョウバッタを一匹ずつ並べて置き、 鳥がどちらのバッタを先に食べるかを調べてみた。鳥がどちらか一方をくわえると、箱をすぐひっこめて、欠けた色のバッタを補充してまた鳥にさし出すやり方で何回も実験をくりかえした。 鳥たちは何しろ日頃ろくなものをもらっていないので、この実験には献身的に協力した。日曜日のお遊び実験ながら、ほどほどに野次馬も集まった。 また、鳥もいやになるまでバッタにありつき、おおいに満腹した。はっきりした結果が出た。カケスもモズも青草の場合には茶色のバッタ、枯れ草の場合には緑色のバッタというふうに目立つ方のバッタを先に食べた。 実験はそれぞれ100回ほどくりかえしたが、例外は2〜3例にすぎなかった。もっとも、ほっておくと、たちまち残った目立たない方のバッタも食べてしまうので、 この保護色の実際の効果については定かではない。しかし、背景と同色のバッタは、異色のバッタよりもあとで食われる分だけ多少とも逃げるチャンスが大きいことはたしかである。 この“多少”に地史的な年月が加われば、進化の場面では大きな意味を持つ。このバッタの体色の成立には捕食者の鳥が関与した可能性が大きく、その結果、 ショウリョウバッタは止まる草の色の選択性と体色がセットされた遺伝子を持つに至ったのであろう。 結末息子の宿題は先生にたいそうほめられた。「ワカッテル」先生は、「お父さんによろしく」とも言ってくれた。カケスは、その主人が筑波に引越しする寸前に、自分で小屋の戸を開けてだまって去ってくれた。筑波の団地ではこんな大きい鳥は飼えないし、 もともと禁鳥なので、成長になったら放すつもりでいたものの、すっかりなれて離れがたくもあった。カケスは主人の心を「ワカッテタ」のだ。 モズは実験用の虫をもらって育てられていたが、実験が忙しくなり、もらう虫が少なくなった。そして、初冬の朝、餓えによってその短い生涯を静かに閉じた。 死を見守った国家公務員たちは、モズは豚肉で飼えるという事実を、そのときだれも知らなかった。 [みのりの仲間,No.10(1979)] |
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