日本の戦前の虫の本には、虫の和名に漢字名を併記してある例が多い。そしてそれには、「蝉(セミ)・蜜蜂(ミツバチ)・蚕蛾(カイコガ)」のように、
和漢同音のものと、「蜻蛉(カゲロウ)・蟋蟀(コオロギ)・天牛(カミキリ)」のように読みが違うものとがある。ただし後者の例では、和名に対応する漢字としてワープロソフトにも入っているほどなので、
読みが違ってもなんなくわかる人も多いであろう。しかしこのケースでも、「鼓豆虫(ミズスマシ)・豆娘(イトトンボ)、石蚕(ヒトゲラ)」などとなると、
まず一般には難問であろう。 和漢同音の虫名は、中国渡来の漢字名由来の和名か、または逆に日本の虫名に当てられた和製漢字名かのいずれかである。和漢の読みが違う虫名は、 中国と日本の虫名をそのまま組み合わせた事例がほとんどである。だから読めなくてもむしろ当然である。 |
南方からの侵入種ミナミキイロアザミウマ | ナスの被害 |
「アザミウマ目」という虫のグループがあり、世界から約5千種、日本からも約2百種が記録されている。大部分が体長1mm内外の微少な昆虫で、
幼虫も成虫も植物を吸汁して生活している。この仲間は、長らく人間生活と無関係の野の虫であったが、近年、作物への被害が目立ちはじめ、
属名に由来する「スリップス」の名で注目されるようになってきた。とくに、1978年に南方から侵入したミナミキイロアザミウマが、ハウス野菜を中心に空前の被害を与えて生産者も震撼させ、
”大害虫”のイメージが不動のものとなった。 「あざみうま(薊馬)」という名は明治31年(1898)に松村松年によってはじめて命名された。またその語源は、子供たちがアザミの花を摘んで軽く手のひらの上にたたき、 「ウマでー、ウシでー」と唱えながら、出てくる小さい虫の数を競う遊びが関西地方にあったことに由来する。長谷川 仁氏によれば、 虫を馬や牛になぞらえる方言は多く、これもその一例という。いずれにしても「薊馬」は純粋の和製の漢字名である。 一方、ぼくが昔はじめて訪中したとき、この虫が「チーマ」と呼ばれ、中国でも害虫として高名な虫であることを知った。そして後になってから、 「チーマ」が「薊馬」の中国語読みであることも知った。この虫はかつて中国でも名前がなかったほど、関心の薄い虫だったのであろう。 純和製の漢字虫名が本家中国に逆輸出されたこうした例を、ぼくは寡聞にしてほかに知らない。これが歴史的にお世話になった中国の漢字文化に対し、 ささやかなお返しになったかどうかは別にして……。 [研究ジャーナル,24巻・1号(2001)] |
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