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バイオリンムシ飛ぶ

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 間違った情報を信じたまま生涯是正されない……そんな思い込みが自分だけにとどまっている限りはさして問題にはならないが、 これを原稿に書いて活字で残すと自分だけの恥では済まないことがある。数多いぼくの雑文のなかには「なかったことにしてほしい」記述も少なくないが、 とりわけ今回の話はその最たるものである。死ぬ前にひそかに訂正しておきたい思いもあり、あえて恥を披露する次第である。

バイオリンムシ成虫
(マレーシア産)
 東南アジアの密林でサルノコシカケ科のキノコに集まる虫を食べて生活しているバイオリンムシという甲虫がある(写真)。 翅の周囲が半透明の幕状に張り出したバイオリンを連想させる珍奇な形態と希少価値で、古くから欧米のコレクターの注目を浴び、 19世紀の中頃にはパリの博物館が1匹1,000フランで購入したこともあると伝えられる。 ぼくは昔、子供向きの著書『カブトムシってこんなもの』(誠文堂新光社:1974)の中でこの虫のことに触れ、 「……体長は5〜10cmもあるのに、からだの厚さは5mmくらいしかありません。前ばねも後ばねも一枚の板のようにくっついていて飛ぶことはできません……」と書いた。

 ところが10年ほど前ボルネオに昆虫採集に行った友人から、この虫が電灯の明かりに飛んできたというびっくりする話がもたらされた。 上翅をはがせば、下に薄い大きな下翅があり、飛べることがすぐに分かったはずである。が、この稀少な標本を傷めるかもしれないそんなことをだれもせず、 "飛べそうにない"形から「飛べない」という漠とした「神話」だけがひとり歩きしてきた。言い訳めくが神話を信じたのはぼくだけではないが、 「飛べない」ことを明記した本もほかに見当たらない。幸か不幸か、この拙著は当時学校図書館の推薦図書になり、 今でも多くの図書館や図書室に残されているはずである。それを思うと一層気が重くなり、安易にものを書くことの恐ろしさが身に沁みる。

 ちなみに、バイオリンムシは近年詳しい生活史が解明され、また、採集人によって大量に棲息する場所が各地で見つかっている。 その場所は採集人同士で極秘事項になっている由だが、すでに希少性は失われ、一昔前まで日本で1匹1万円もした標本も現在では1,000円ていどに暴落している。

[研究ジャーナル,26巻・8号(2003)]



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