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生態防除と経営多角化に貢献した
藤本虎喜の「水稲晩化栽培」


イラスト

【絵:後藤 泱子】

絵をクリックすると大きな画像がご覧いただけます。)
 寅年に因み、「虎」の字のつく先人の話をしてみよう。

 日本列島を歩いてみると、ほかの地方では知られなくても、ある地方の農業活性化に貢献し、今も農家に敬慕される技術の足跡をたどることができる。大正11年(1922)、 熊本県農事試験場藤本虎喜(ふじもととらき)が考案した「水稲晩化栽培」もそのひとつだろう。大正末から昭和初頭にかけて、熊本県内に広く普及した。

 藤本はもともと作物栽培の専門家だった。その彼が、稲作の大敵サンカメイガの駆除に有効なこの栽培法を思いついたのには、つぎのような事情があった。彼が担当したシチトウイ(七島藺、畳表用)の試験で、 後作の稲が予想以上に穫れたのである。
〈作期をかなり遅らせても、つくり方次第で稲は穫れる〉
晩化栽培の研究はここからはじまった。

 晩化栽培は晩生品種を6月中旬に播種、7月中旬に田植えし、11月上旬に収穫する。試験の結果、藤本はこの作期でも、適品種と若苗の密植、速効性肥料の施用によって十分な穂数を確保すれば、 慣行栽培以上に増収することに確信をもった。

 晩化栽培は、前回述べた益田素平(ますだそへい)の「遁作法」の流れをくむ。遁作法ではサンカメイガの第1世代産卵期を避け、苗代時期を慣行より10日ほど前後にずらす。 晩化栽培では、これを1月近く遅らせることで、さらに被害を大幅に軽減することができた。

 もちろん田植を遅らせたのは熊本県だけではない。被害の多かった西日本各県がこぞって晩植に切り換えたが、藤本の晩化栽培にはもう一つねらいがあった。とくに県南の温暖地が対象だが、 田植期を大幅に繰り下げることで多毛作を可能にし、経営の多角化を図ろうとしたのである。晩化栽培に野菜やイグサを組み合わせれば、従来の稲麦2毛作以上に経営を豊かにすることができる。 シチトウイから出発した彼ならではの発想であった。

 大正12年(1923)、藤本は八代郡の農家集会に出席、この新農法について講演した。講演は農家の共感を呼び、以後県内各地で現地試験が行われるようになった。とくに先行したのが、サンカメイガの被害がひどい八代・天草地方である。 この地方では、それまで早植が励行されていたが、米質が悪く、新たな害虫の発生もあって困っていたのであった。

 とはいえ、この栽培法に障害がなかったわけではない。なによりこの栽培法は地域内農家全員の参加がないと成立しない。藤本は疑問視する農家に「わしの生首をかける」とまでいって、説得したという。 みずからの研究に強い自信と責任をもつ研究者の熱意が伝わってくる。

晩化栽培は昭和6年(1931)には栽培面積1万ヘクタール、12年(1937)には3万ヘクタールにまで達し、県下水田の3分の1に普及した。ほかにも宮崎県で1000ヘクタール普及している。戦後、サンカメイガは根絶され、 晩化栽培も姿を消すが、この栽培法の遺産は全国一の生産を誇る熊本県産イグサ・葉タバコやトマトなどの野菜栽培に受け継がれ、今も生きている。

 藤本は、のちに農事試験場長、衆議院議員を歴任するが、昭和56年(1981)89歳で亡くなった。彼の功績をたたえる晩化栽培記念碑は、わたしが知るだけでも、天草農業研究所構内など2ヵ所に建っている。

新・日本の農を拓いた先人たち(25)害虫防除と経営多角化に貢献した藤本虎喜、熊本県内に水稲晩化栽培を普及 『農業共済新聞』2010年1月2週号(2010)より転載  (西尾 敏彦)


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