【絵:後藤 泱子】
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6月の梅雨の晴れ間に、戦後の食糧難時代に日本中の農家を沸かせた「米作日本一」農家の事績に接したくて富山県を訪ねてみた。
「米作日本一」といっても、今では知らない人が多いだろう。昭和24年(1949)から20年間つづいた朝日新聞主催の多収穫競励事業である。農林省や全農中央会の支援もあり、当時の農家の増産意欲をかき立てた。
参加した農家数は毎年およそ2万人、延べ40万人に及ぶというから、その盛り上がりぶりがうかがわれる。
最近は稲の多収技術はあまり歓迎されないが、この競励会が農家の稲作技術を底上げしたことは間違いない。同時にこの競励会が、それまで農家個人のものであった多収技術に科学の光を当てる機会となり、
稲作研究躍進の契機となったことも特記しておきたい。
米作日本一競励事業のなかでも、とくにその後の稲作技術の進歩に貢献したのが、富山県の農家土肥敏夫
・川原宗市・上楽菊3氏の創意のリレーによる合理的な〈水のかけひき〉である。
今と違って、元肥に厩肥を多く用いた時代である。真夏の高温で、ともすれば徒長しやすい北陸の稲作では、倒れない稲をつくることが、多収稲作の最低要件だったからである。
水のかけひきで最初に注目を集めたのは、昭和26年(1951)に日本一に輝いた高岡市の土肥敏夫の米づくりであった。当時29歳の土肥は短稈品種の「短銀坊主」を使い、
それまでの記録を更新、10アール当たり858キロの多収をあげた。庄川下流域の沖積地帯にあった彼の田は、足が20センチももぐるという半湿田だった。根ぐされが出やすく、収穫期ころには稲が倒伏しやすい田んぼで、
せいぜい480キロ程度しかとれなかったという。
多収穫に挑むに際し、土肥が最初に試みたのは田の片側に深溝を掘り、排水をよくすることであった。注目されたのは、彼が中干し期間を除いて4日ごとに落水し、数時間田面を空気にさらすという水管理をくり返したことである。
「腐れ水を捨てる」というのが彼の言い分であった。土壌の酸欠を防ぐだけでなく、有機物分解から生じる有害物質を除去することにも有効だったに違いない。こうして根の活性を維持したことが、
日本一の多収をあげる結果につながったのだろう。
土肥が工夫した水のかけひきは、29年に日本一になった井波町(現在の南砺市)の川原宗市の手でさらに磨きがかけられた。なだらかな傾斜地にあった彼の田は潅排水が自由にできる。彼はここで間断灌漑を駆使し、
夜間のかけ流しも実施して994キロの多収をあげた。川原の工夫はさらに昭和30年度の米作日本一上楽菊に受け継がれる。上楽の水のかけひきについては次回に述べることにしよう。
土肥は米作日本一になった後も、副業の薬売りに精を出していたが、その旅先で病に倒れた。さいわいその後回復したが、高齢のため、お目にかかることはできなかった。土肥が精進した田んぼをみたいと思ったが、
今では新しい道路の下に埋もれていて、赤っぽい盛土だけが目に残った。
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