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中学校の生物実験がきっかけをつくった
エノキタケ人工栽培


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【絵:後藤 泱子】

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 鍋物の季節である。その鍋物に欠かせないエノキタケの人工栽培の歴史を、今回から2回に分けて述べてみたい。

 話は昭和3年(1928)にさかのぼる。当時、広く読まれていた婦人雑誌『主婦の友』に「簡単で有利ななめ(たけ)の人工栽培」という記事が掲載された。 なめ茸とは現在のエノキタケのこと。国内産出額345億円、うち6割を長野県が占める特産エノキタケ栽培の歴史は、このわずか3頁の記事からはじまった。

 じつはこの記事の筆者は、のちに〈キノコ栽培の父〉といわれた森本彦三郎(もりもとひこさぶろう)であった。森本は和歌山県の生まれ。 若くしてアメリカ・フランスに留学、マッシュルームの栽培法を勉強した。帰国後、その知見を活かし、エノキタケ・シイタケなどの人工(菌床)栽培法を開発した。

 エノキタケは榎・柿・桑などに自生するキノコである。森本はこれを、オガクズに米ぬかを混ぜた培地(菌床)で育てることに成功した。大正末期のことである。以後、彼は種菌の販売と併せ、 栽培法の普及に努めている。

 『主婦の友』の記事は、遠い長野県の旧制屋代中学校生物学教諭長谷川五作(はせがわごさく)の目にとまった。もともと長谷川は研究熱心な先生であった。 メンデル遺伝法則が再発見されたときも、いち早くこれをトウモロコシで追試し、その写真を専門書に提供したという逸話の持ち主である。エノキタケの人工栽培についても、早くから知っていて、 実習で生徒に教えていたらしい。記事を読んで、さっそくこれを農家の冬期副業に役立てようと、周囲に広めていった。

 昭和6年(1931)、松代町の山寺信らは、全期間をガラスビン内で生育させる新しい人工栽培法を開発した。森本の場合も、ガラスビンで培地の殺菌→種菌の接種→培養を行うが、菌糸伸長後にビンをこわし、 得られた柱状培地の上側面でキノコを育てている。いっぽう山寺らは培地を詰めたビンのままで殺菌消毒→接種→培養を一貫して行った。ビンの口に紙を巻きつけ、暗室でもやし状の茎を多生させる現在の栽培法の原型は、 このとき確立された。白化させることで、クセのない良食味キノコができるようになったという。

 エノキタケ栽培は以後、松代町周辺の副業となる。ただし技術を特許化したため、ごく限られた人の間で栽培されるにとどまった。しかも戦争の激化とともに、それも休止状態に追い込まれていった。

 エノキタケが長野県の特産農産物として本格栽培されるようになるのは、戦後になってからである。このころになると特許も切れ、出稼ぎに代わる新たな農業として、農家の注目を集めるようになった。 ここから多くの農家の知恵が積み重ねられていくが、その経過については次回にゆずりたい。

 昭和38年(1963)、〈エノキタケの育ての親〉長谷川五作は83歳で亡くなった。彼の功績をたたえる胸像は出身地松代町の長国寺にある。山寺信らが人工栽培法を確立した松代町には、 JA松代農業総合センター前に「えのき茸発祥の地」の看板が立っている。

【追記】本稿は長野県におけるエノキダケ人工栽培の創始者を長谷川五作とする従来の通説にしたがって執筆した。だがその後の特許公報などの資料調査によって、現在の著者は、長谷川は紹介者として顕彰されるが、 真の創始者は白化ビン栽培法の開発者である山寺信とみるほうが妥当であると、考えている。 (最終話「『日本の農を拓いた先人たち』の執筆を終って」参照)

新・日本の農を拓いた先人たち(14)中学校教師が生み出したエノキタケの人工栽培、出稼ぎに代わる新たな農業 『農業共済新聞』2009年2月2週号(2009)より転載  (西尾 敏彦)


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