【絵:後藤 泱子】
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戦争中、松代町の限られた人の間で門外不出とされたエノキタケの人工栽培だが、戦後特許期限がきれると、県内各地に広まっていった。ちょうど経済成長が進み、都市と農村との格差が目立ちはじめた時期である。
出稼ぎで苦労した農家が、それに代わる儲かる農業として期待したのが、このエノキタケの人工栽培であった。
エノキタケ栽培はニッチ(隙間)の技術である。最初は農業はもちろん、林業も食品業も、すべての技術分野が見向きもしなかった。試験場も、大学も、教えてくれない。農家ひとりひとりが研究者になり、
それぞれが知恵を寄せ合うしか、技術習得に道はなかった。
エノキタケの栽培にもっとも熱心だったのは、県北中野市周辺の農家であった。昨年の夏、その先駆者のひとり浅沼徳直さんを、中野のお宅に訪ねてみた。浅沼がエノキタケ栽培をはじめたのは昭和34年(1959)のこと。
仲間を誘い、資金を持ち寄って高圧殺菌釜などを購入、人工栽培に挑戦した。鍬をもつ手に種菌の移植や滅菌釜の操作は、さぞ戸惑いも多かったろう。
浅沼たちは培地のビンづめから殺菌までを共同作業で行い、それ以降は各人が責任をもつ半協業体制で生産を進めた。今考えると、この方式がよかったと彼はいう。毎日集まって、お互いのキノコのできを比較し、
最適条件を探っていく。ここでの情報交換が技術を一歩一歩前進させていった。
売り込みにも苦労が多かった。なにしろ消費者にとっては、はじめてみる食べ物である。毒キノコと警戒され、市場に出向き説明して回ったこともあった。
「農業は1人ではできない。仲間がいなければ産地にならない」
浅沼は当時を振り返り、そう述懐していた。
長野県内のエノキタケ栽培は、昭和30年(1955)代後半から本格化する。昭和36年(1961)には県園芸試験場がエノキタケの研究を開始した。県の資金援助もはじまり、経済連には部会が発足した。
全県的な品評会も開催され、集まった農家が互いに情報を交換し、競い合いながら、さらに技術を磨きあげていった。
エノキタケが全国のスーパーに出回るようになったのは、昭和40年(1965)代になってからだろう。このころには暖房の練炭が電熱に代わり、ガラスビンもポリプロピレン(PPビン)になった。
品種や培地も改良が進み、栽培工程の効率化・機械化も急速に進んだ。冷房が導入され、周年栽培も可能になった。最近は温湿度・風光まで制御する大規模施設も多くなっている。
特筆したいのは、これらの技術のほとんどが農家と地元産業の手で創られたことである。平成19年(2007)現在、エノキタケの国内総生産量は13万トン、生産額は345億円におよぶ。その57%の7万7000トン、
197億円が長野県産で、さらにその7割が中野など北信地方産で占められている。最近はさらにブナシメジなどの人工栽培も多くなった。「キノコ王国長野」の名声は、生産農家ひとりひとりの知恵と工夫の積み重ねが呼び寄せたといって過言でないだろう。
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