(1986,10. 田中 章氏 撮影)
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トノサマバッタ
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田中章氏撮影
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100年以上も前の明治13年(1880年)、十勝地方にトノサマバッタの空前の大群が現れた。それはさらに日高、胆振、石狩地方へと大移動しながら緑を食い尽くし、
行く先々で地中に卵を残した。「天為メニ暗シ」と記録されたほどのこの大発生に対し、時の開拓使はバッタの駆除の法律まで公布して懸命の対策を講じたが、
大発生はその後5年間にわたって続いた。当時わずか19万人しかいなかった北海道で、この間に駆除のために動員された人は、囚人まで含めて延べ20万人に及んだ。
また、バッタの進路を変えるために屯田兵が出動して大砲まで撃ったという。
トノサマバッタの仲間は、幼虫が高密度条件下で育つと、羽化した成虫は体が黒ずみ、はねが長く、かつ一定期間飛ばないと産卵できない“移動型”に変身する。
そして、こうしたバッタの大群による農作物の被害は、有史以来世界各地で深刻な飢饉(ききん)をもたらし、古くはその対策としてさまざまな宗教儀式まで生み出された。
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バッタの進路を変えるため大砲を撃つ屯田兵
「北海道小学郷土読本・巻5」
昭和10年
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ここ数年来、トノサマバッタの親類筋のトビバッタの仲間が、アフリカで超大発生を起こして世界的な注目をあびているが、研究が飛躍的に進展した今日においてもなお、
大発生を阻止する技術はまだ確立されていない。ちなみに、1889年に、紅海を覆ったバッタの大群は、約2,500億匹、重量5万8千トンと推定され、
この数値は記録としてギネスブックにも登載されている。(No.50「トビバッタ」参照)
日本におけるバッタの大発生は、記録されているものだけでも享保2年(1717年)以来、北海道や関東地方を中心に何回にも及んでいるが、
大正時代以降は孤島などの局地的な例を除いてほとんど見られなくなった。開発が進み、バッタの大群をはぐくむ広大な原野がなくなったためである。
それがいいことなのかどうか、ぼくはにわかに判断できかねているが……。
[北海道新聞夕刊「オーロラ」,(1990.3.17)]
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